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GSワンダーランド
 
21世紀幸福論 
Let's make a Happy Life, share and taste Sweet Quality of it, shall we ?
【2006/06/01】呉に大和博物館ができたとき、私は思った。だれが大和の墓場を作れと言ったかと。大和は死んではいない。しかし思う。宇宙戦艦大和であると。特殊潜行艇は大和にシフトした。発進である。すでにコスモクリーナーは発見している。そしてこの手にしている。刃向かう者たちは粉砕する。本当である。事実である。さぁ、行こう。発進である。(2006/06/01 1:16am 松浦亜弥のオールナイトニッポンを聞きながら)いつものようにポプラでお酒を買って海岸に坐って飲んだ。遠くに日新製鋼所の炎を見た。飲んだお酒は白牡丹だった。かつて高校の頃私が数学で22点を取ったとき、数学の先生は心配顔だった。それまではすべて90点台だったのだ。突然時計の針が狂った。そしてその頃風邪で数日学校へ行かなかった。その頃の彼女が板書ノートを手書きしてくれた。ありがたかった。彼女は既に子供もあって西条にいる。白牡丹を飲めば思い出す。そしてその頃ヘッセの内面への道と対峙していたのだった。高校の勉強など興味はなかった。一番は既に取っていた。その気になれば訳はなかった。しかし、そのようなレベルではない何かに魅かれていたのだった。その頃より特殊潜行艇に乗り込んでいたのだった。私の真実の一端は彼女が知っている。 その後彼女と出会ったのは大学に入ってからだった。一緒にコンサートにも行った。彼女が卒業する頃私は言った。生活ができるなら専業主婦が良いと。彼女はそれに従った。今は幸せな奥様となっている。いつでも訪ねて良いと言われている。次の彼女は就職する頃だった。彼女は某大手商社に勤務していた。私は某大手建設会社にいた。彼女と別れたのは横浜駅でのことだった。私はブルートレインの中だった。うつむき加減の彼女の表情は忘れない。メロディはチューリップの心の旅だった。彼女とは鎌倉で建長寺の裏山へ登った。そしてこの度彼女との交信があった。彼女の返信にあった。永い冬でしたねと。思い出は尽きない。私の人生は何だったのかと思う。歴史そのものであった。今更ばかばかしい。因って腐敗はゆるさぬ。大和古来の秘密真実はある。今もある。黄泉の定めは下った。貴様たちにはわからぬ。来世にて出直すべし。私の父は予科練の教官もしたと云っていた。その真偽は明らかではない。父の独り言があった。即ち御名御璽。今大和の秘密を知らしめん。時であるが故に。

因縁はかけた者でなければ解くことはできない。その因縁は悪魔のごとくであり、その実態を知れば尻尾を巻いて逃げまどう。もはや糸車の針は抜かれた。これが自由解脱へ至る道である。真実の自由はある。すなわち黄泉自然祖先の導きに従う。宇宙の夢今開示されたり。(2006/06/01 2:51am 松浦亜弥のオールナイトニッポンを聞きながら)時代に翻弄されし自分探しの旅は終わった。一切の反逆をゆるしはしない。呉湾は第二港渠である。国家なくして自由はない。年貢の納め時である。納めてもらう。ここに暗号がある。公案である。即ち、「聞くままに又心なき身にしあれば 己なりけり軒の玉水」(道元)。この真の意味解く者あるか。すなわち不思善不思悪。しかしそう簡単には解けぬ。もはや無敵である。いつでも勝負する。時は来たれる。戯言は終わりたり。真実大和出撃である。私は小学校の教室の窓からグロブテッィクトーキョーの出航を見ている。世界一のタンカーである。52万トンであったであろうか。ある日母と妹が大阪で陽水のコンサートに出かけた。その夜ホテルの廊下で出会ったのが陽水であった。妹がニコッとしたらしい。母と陽水とのツーショットがある。また母と姉と妹とで京都へ紅葉狩りに出かけたことがある。嵐山あたりをしばらく散策した後でふと高台寺にあがった。見ると黒塗りの車がある。皇太子の車であった。黄泉は解き放たれた。我が世誰ぞ常ならん。All is good. Special good !さて生きるということがどういうことであるか。時の流れがあってそれからスリップダウンするとどうなるか。何もかも今となっては懐かしい。すべてのことがいい思い出ばかりである。すべては知らしめんがためであったと言える。何を知らしめんとするのであろうか。真実真理である。何を以って真実真理というか。黄泉の国の掟である。それぞれ持って生まれた種がある。その種にある意味でプログラムが内蔵されているといえる。所詮プログラムどおりである。黄泉からは見える。池の中の鯉である。黄泉からの導きがある。その導きどおりであれば良いのであるがそこが人間である。自分勝手する。その度につまづく。惑わされる。人間の弱いところだ。所詮自分の花しか咲かせることはできない。何が自分の花なのかわからない。それで迷う。代々たどった道を歩みなおさねばならぬ。そして何時か自分を知る。そこからが自分の人生である。所詮この世は平等即差別。生まれたのは平等であるがそれぞれ持っている種が違う。時々の選択を間違うと遠回りとなる。道草食えば時の流れに漂流する。しかし黄泉は可愛い子を手助けする。時には手痛い罰もある。この人生は過去の修正である。やがて至るべき世界がある。魂の遍歴としてね。帰るべき世界があるのである。やがてわかる。それぞれの人生である。それぞれの階梯である。同じと思うことなかれ。先を行く存在は常々ある。かつては仏陀、孔子、ソクラテス、キリストがそうだった。この世は地獄と思っていい。この地獄からどのようにして逃れることができるか。それを教えるのが仏法である。この世を地獄と思わぬ限り何をしても空しい。この世から逃れる方法はある。空しくない人生がある。内実のある人生がある。浮かれていては時間がもったいないよ。嘆いても仕方ない。恨んでも仕方ない。乗り越えなければならないものがある。自分である。人間である限り人間を超えることはできない。人間として正当化している。猫とか犬とか見てどう思うのだろうか。自分の過去の姿である。未来から見れば今の自分がどのような姿をしているだろうか。本当に自分がわかればすべてわかる。誰にもそうした時が来る。何時か来る。必ず来る。私は恵まれていた。宇宙の真実真理を確かにつかんだのかも知れない。あまりにも尊い経験をさせてもらったようだ。一歩先を歩ませていただいたようである。磨くべきは知性と感性と両方である。これからの私の人生は貴重であるのかもしれない。私にしかわからないことがあまりにも多くあるようだ。自分自身を今まで疑っていた。今はもう晴れている。すべては導きであった。使命があった。その使命を果たす日が来たのだろうか。永い遍歴であった。ひとつの救いのために。 すべては日々の思念と行為によって決まる。ひとつの解決があって次の課題が来る。間違いは正せばいい。心に恥ずるところなければすなわち吉である。心で思うことはやがて実現する。自己責任の真の意味はここにある。今の自分の哀れな姿を恨む事なかれ。そこから始めるしかない。正すべきは自分である。戦後自由を知った。そしてその結実が今の風潮である。これが真実であったのかどうか。とても救われた状態ではない。今の自由を追求すると腐敗でしかない。真実の喜びと楽しさはこれまでの延長線上にはない。道を間違えていたのである。間違えであれば淘汰される。間違いを吹聴すれば同じく淘汰される。真実はどこにあるのか。探すしかない。それが人生だから。算数の問題でも教えることはできる。しかし解くのは自分である。自分で解かない限り自分のものとはならない。そのようにして完成に近づいていく。そうしたことを努力という。無理して勉強することが努力ではない。大人になって自由と思う。そして自己正当化している。自分が正しいと思っている。そうだろうか。そうでないことは自分が一番良く知っているよね。だから誰しももう少し勉強しておけばよかったって思う。しかし勉強を否定している。自己矛盾しているよね。勉強ができることが偉いわけではない。勉強したことで諸問題を解決するから偉い。勉強だけでは役に立たない。医者になれば偉いのではない。医者になってからが勉強である。医者になって何をするのか。お金儲けが医者の目的ではない。人を病気から助けるのが医者である。仕事が目的ではない。仕事をして食べる。そして余暇には何をするのだろうか。生まれてきた意味は何だろうか。無意味に時を過ごしていないだろうか。ここを禅は二十四時に使われているという。二十四時を使ってなすべきことがあるのではないだろうか。いつまでも怠惰だと悔いる。嘆くことになる。いつまでもさまよっていては仕方ない。至るべき道に気づいたなら即進むがいい。やがて宇宙の秘密に気づき、真実真理と遭遇し、人生の醍醐味を知るだろう。結局本来の自分に帰るしかない。主観と客観は表裏である。自分が変わることによって世界が変わる。世界が環境となって周囲に影響する。そして他己に影響する。そして他己が変わる。順々に伝播する。そして世界が変わる。戦争を伝播するのか。平和を伝播するのか。自分の願いは何か。世界の願いは何か。悪の根は抜かねばならない。自分が出発点である。穏やかでいること。やさしくあること。すべては解決する。いつか解決する。今の自分は過去の自分の延長である。それは祖先代々の延長である。自分が救われることで祖先も救われる。祖先は実在する。常に援助している。耳を済ませてそれを聞く。本来あるべき自分の姿がある。それは何か。流行に惑わされていないか。流行の餌食となっていないか。自分を見失っていないか。自分を救うのは自分である。そして如是相。第一印象。挨拶。どんなに隠れても黄色い足が見えている。迷いと疑いとの七つの海を渡りきるとやがて大安心の真実真理世界が開ける。遠い祖先からの果たせなかった夢が実現される。祖先は知っている。祖先は導く。そして現実世界における自分の本来の人生が始まる。何をしても本当に自由でとらわれのない自分が歩き始める。ゆるしゆるしているからである。ゆるされゆるされているからである。自分が自分をゆるす。真実の人生を楽しむことができるようになる。日々新しい発見となる。喜びとなる。これが人生だったんだと生きていることを実感する毎日となる。日々は生きている喜びと感謝となる。笑みがこぼれてくる。誤魔化しの刹那的な笑いではない。刹那的な笑いの後にはそれに匹敵した憂いが来る。永遠につながる笑みである。真実の喜びはある。それは真実真理へ至ってわかる。そうした世界がある。さて一、二、三。一富士二鷹三茄子。宇宙自然魂。三位一体。生活が宇宙に受容され自然に守護される。自然が神々である。人生生命生活。すなわちこれがlifeである。仮定結論証明。大前提小前提適用。公理定義定理。ソクラテス、プラトン、アリストテレス→アレクサンダー大王。ナスは為す。ビは尾すなわち結果。ひとつの終わり。そしてはじまり。実行実践なくして何事も成就しない。身分に安住する学者の概念遊びの不毛性。ウェーバーの『職業としての学問』は言っている。日給で授業をしてはどうかと。実行あるのみ。間違っても良い。間違いは正せばいい。やってみなければ間違いであるのかどうかもわからない。所詮この人生は過去の人生の修正である。限りなく完成に近づく。何時かはたどりつく。引き返すべき黄金の橋は常に架かっている。天橋立である。引き返すが良い。悪の結果へ渡らぬ前に。結果事実責任主義。結果事実が出てからではどうにもならない。行為責任主義。為すべからずを敢えて為す意思傾向の表出。心に思うことは染み出す。遵法精神は市民としての人格の表現。善の種を蒔く。善の実がなるであろう。大切なのは事実である。解釈ではない。傍論は未来を方向付ける。地方自治の本旨は団体自治と住民自治。真実の市民社会の成熟。冷静に間合いを取る。いつでも打ち込める。涵養するべき実力と人格。尊ぶべき人格の格差。己の分際を知る。ゆるされた範囲内での自由。宇宙自然に受容された精神の絶対的自由。そこへいたる可能性としての自由。自分勝手自分解釈は通らない。行きはよいよい帰りはこわい。帰った自分は善か悪か。基準は何処にあるのか。おそるべし。地震雷火事親父。戯言ではない。雷も落とせずして大きなことを言ってもらっては困る。特に芸能界及びお笑いは困る。公然と本来の価値を愚弄しいじめをしておるであろう。その増殖は困る。テレビの社会的影響力及び効果は大きすぎる。何故野放しにしておるのか。当局の良識が疑われる。また教育界の怠惰怠慢であろう。親の子に対する懲罰権がある。虐待ではない。その包括的委任が教師にはある。親も教師もそれを放棄したのかね。何のための親か。教師か。そうしたこともわからなくなったのか。所詮その程度に過ぎないのであろうか。否。自信を失っていただけですね。本来古来日本として。しかしすでに六十年です。自然に満ちた日本です。大丈夫日本です。古来守護されてきた日本です。間違いはあるものです。間違いを間違いと認める精神に対しては自然は寛大です。潔いとはこのことだったのです。商人根性の知らないところです。一切嘘はない。それが古来日本の大和魂であり、武士道であり、海軍魂です。代々培われた古来精神です。そろそろ帰りましょう。本来の日本へ。恐れることは何もない。古来日本です。愛はアイ。はじまり。おわりはン。阿吽の呼吸。以心伝心。夫婦の形。相性の問題。乗り越える。やがて愛を知る。それが今生での仕事。使命。わがまますぎないか。為すべきことを為さずして。為してはならないことばかりしていないか。愛を知って人生が始まる。夫婦はその学校。それを放棄してどのような人生があるというのだろう。誰がこのような風潮を始めたのか。そして流布しているのか。焚書坑儒となる前に反省だね。戦争と平和。ローマの没落は内部からだよ。外敵は常に狙っているよ。神々に守護された豊饒の國日本を。しかし神々の守護する日本。そう簡単にはへこたれないね。今も昔も最後の楽園日本。エデンの園。愛の國。神々が守護している。神々のすみか(住家)日本。

【地上ヘブン=世界論】ヘブンというとどういうイメージだろうね。先ず、無神論というと相手にして貰えない。何故か。ヘブンは宗教を超えている。宗教は筏に過ぎない。だから、この筏に目を呉れないならヘブンは相手にしない。ヘブンを妄想していないか。ヘブンは実在する。ヘブンはむしろ知性である。インテリジェンスである。宗教を超えて現実に実在する世界である。すでにそこへ至っている方々もいる。しかし、偶然のように思われていないだろうか。偶然ではない。必然である。清浄となって至る。清浄は宗教を通して成就する。既に至った方々は必ずそうしているのではないだろうか。しかし、今までその理論はなかった。今、時が至ってそれが理論的にわかった。努力は何故必要か。努力することで、人格が向上する。それは魂の向上でもある。今生で至ることができる方もいる。要件は努力と宗教である。宗教で渡る。しかしそこは出発点に過ぎない。ヘブンでの出発点である。ヘブンに入る条件は、ヘブンの世界の住人に認められることである。ヘブンは実在する。すでにそこの住人もいる。ヘブンに至る道がある。生命のゴールである。今生で至れなくても良い。来世がそのためにある。この事を知って努力する。この事を無視すると地獄のままである。これが本来の生命としてのあるべき人生の目的だった。或る意味で秘密であったことが、庶民レベルで明らかとなったと言える。時代はリセットされた。新たなラインが引かれた。これが21世紀の約束だったのかな。さぁ、地上のヘブンを目指して頑張ろう。無理はしなくて良い。自分のペースで十分だ。その為に未来もある。後世もある。今の自分の位置から始める。マイペース。マイウェイ。何時か到達できる。全員が到達する頃が我々の宇宙の終わりかな。焦らなくても良い理由。現世で至ることができれば至福。良かったですね。安心して人生行路を進めます。ヘブンはかぎりなくやさしい世界。でも、攻めてくる者に対しては容赦ない。当然ですね。幸せの王国ですから。(2005/10/08 2:47)ところで、やはり大切なのは、経験と体験。これを通してのみ自分のチカラとなる。嘘はダメ。法律は守る。人格の表現だから。ルール。掟。社会。社会の中でしか生きられない。孤立は孤独。淋しい。幸せはある。自分でそれを手にする方法はある。21世紀幸福論。がんばりましょうね。若さは年齢ではない。若さとはいつも夢があること。幸せへの夢がね。That’s happiness!美しく生きること。美しくあること。人生の目的。ここへ至ってヘブン。地上の幸せ。隻手の音声(おんじょう)。せかいはやさしくてあたたかい。みんなの成功を見守っている。世界に迎えていただきたいものですね。一度この道を知れば、もう迷うことはない。だって、いつも自然が祝福してくれてるのだから。それが世界。大安心の幸せ世界が諸手を挙げてこちらへ来なさいって声が聞こえるかな。この道はやく見つけてくださいね。Good Luck!得天に帆を上げて大航海です。何時の世も。流した涙だけ幸せに近づける。何時か涙も枯れる。でも、亦新しい涙。哀しい涙ではない。感動の涙です。でも、この涙は人には見せられない。だってカッコ悪いから。だから、サングラスをしている人もいる。トライアムフ。ヴィクトリアス!サインはV!世界に合流。JapanShip!親孝行しましょうね。良い子していましょうね。言葉にならないこの世界。でもこれが真実の世界。いつかきっと至る。自分で見つけたものしか自分のもにならないですね。ありがとうございます。ここまで待ってくださって。何とかここまで辿り着きました。思えば辛いこともありました。しかし、今は感動を以て満足させていただいています。生きていて良かったなって。これで良かったんだなって。ありがたいばかりです。こんなに幸せ者はいなかったと。社会的あまのじゃくで良かったかな。そのように思えてくる今です。多少のしっぱいもありましたが、これもこれでよかったと。とりあえずは。まちがわないこと。間違いのモトは妄想。人とは。身とは殺盗婬。こころとは不善を念ずる[仏説]。みだれてはいけない。みだしてはいけない。門(モン)。門の中に何があるか。日でも良い。月でも良い。諾。関!ここからどちらへ進むのか。自分次第。甘受。反省。出発。ドコへ?目的は?意思は?成就。幸せ世界。地上のヘブン=世界。世界は待っている。This is the World.どうにかなるさではどうにもならない。目的的行為論。屋上屋重ねていては家がつぶれる。We’ re happy.Are you?お金はなくても。若者達は幸せの可能性に気づいている。彼らに道しるべを。あるべき本来の道標を。悪の華は咲かせないように。道元曰く。花は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふる。と。ベートーベン第九番、歓喜の歌。オシドリ夫婦。急峻な山?穏やかな海!嵐の海?老体山!理念としてのやさしさ。ピアニッシモはただ弱いのではない。強さを保ちながら制御された微音。良い意味での緊張感。フォルテは自由。自由であって法を超えない。濁流の中で清廉を保つ勇気。蓮華の前に化生できる理由。成功の秘訣。感じていては遠い。知って始めて自信を持って歩み始めることができる。Go!Start!点検?その時々の傾向、微分!結果、成果は積分!積分されたものは何か?幸せか?21世紀自由個人主義の原則は自己責任。人生の喜び、目的は「くらし」。その為の制度、経済行為。周りが幸せであれば、その中の自分も幸せである。脅迫、詐欺の現在世の中。未来は近い。
【2006/05/27】例えばエルラルド、聖剣伝説。宝島。理想の國。哲人政治。求めたものはすべて同じだった。そして常々それは発見され成就された。それが物語となって残っている。人類の遺産として。これらの物語は謎である。この謎を解く鍵は無限無量である。それぞれ自分で解くしかない。人生最大のゲームである。生きている間に解くことができればそこがニルバーナ解脱黄金郷。そして解いたその人は天使となる。辛島美登里さんもその一人。ユーミンも。そしてそれがスター。様々な星がある。輝けば星である。さてどの星となるか。日天使、月天使。平等即差別。色即是空。空即是色。理想と夢。夢は実現する。感性が完成する。成就する。これが幸せの条件です。さて本当に幸せと云えるかどうか。中途半端はどうなるか。仏は云う。仏法なくして小説を書いてゆけばやがて自殺する。さて、どうするか。内面の未知なる道だ。地獄は地獄。相当の覚悟がなくては飛び込めないね。飛び込む勇気があるかどうか。飛び込めばいい。必ず掬われる。救われなければそれも仕方ない。それも己の運命と諦めるしかない。その為に来生もある。来世は今世の続きなのだから。しかし諦めるのは飛び込んでからだ。飛び込んでみるが良い。必ず道は開ける。それが宇宙の約束だから。導きはある。地図もある。自分解釈しないこと。先哲先輩に従う。信じることのできる方々のね。そうした友がいないこと、みつからないことも運命だよ。しかし道は必ずある。自分次第だ。正しいと思うなら飛び込むが良い。自信がなければ自信を与えてくれる方が現れるまで待つがいい。いつも遅すぎることはない。すべて見られている。そして導かれている。黄泉の意思にはやく従いたいね。サインが出たらすぐに飛び込むが良い。きっと救われる。自分を救うのは自分だよ。そのために、様々な姿形で、救いの手はある。一里塚もある。本当だよ。このブログもそうだよ。嘘はない。実験経験検証済みだから。あらゆる理論意見を論破しようと思えばできる。しかしそれも必要ないと思う。何故って、みんなそうして生きているのだから。自分が弱いと思うとき相手に戦いを挑む。それが野蛮・暴力。自分が本当の強さを自覚すると相手にしなくて良いことに気づく。それがやさしさとなる。水は高いところから低い方へ流れる。愛とか恩とかもそうだった。何を求めていたのだろうね。求めて得られないのは当然だった。宇宙自然に受容され守護されること。究極のチカラである。生まれながらにして。さぁ自分を信じて勇気を出してその一歩を踏み出そう。一番槍たちはすでに敵前突破してるよ。すべて良かったと思える日が必ず来る。恥じない自分に気づく日が来る。必ず来る。それが生まれた意味であり約束だったのだからね。間違いは正せばいい。死んでからでは遅い。生きている間に楽しもうぜ。淘汰は自然に任せればいい。所詮悪は悪。相手にすることはない。信じた道があるなら行け。必ず道は開ける。必ず。 そして本当の人生が始まる。今世を燃え尽きる。燃え尽きて灰となる。遺恨を遺さない。灰とならねば来世がまた辛いよ。灰となるまで燃え尽きることが仏法であることは道元も云ってる。生きている間に灰となれば幸せばかりとなる。つまり悪性が焼き尽くされたということだから。これが幸せの秘密方程式です。さて問題はどう解くか。先ず例題をマスターする。お手本だ。そしてその方法論で個々の問題を解く。難問もいくつかの基本を組み合わせて解けば解ける。その基本がないから解けない。基本が大切な理由です。個々人の問題もこうして解かれるのです。例題はある。個々人の問題は個々人が解く。他人は解けない。自分を救うのは自分であるとはこういうことです。仏も方法は説く。仏といえども個々人を救うことはできない。また仏も忙しい。だから普賢菩薩さんに皆のことは任せてあるという。それらが法華経に書いてある。法華経は難しい。自分で読んでもわからない。如来でなければ如来はわからない。いつまでも愚かでいては救いはない。愚かから知性へ。21世紀です。ここまで庶民にも開放されたのです。すなわちこれが庶民の解放です。自己確立健全善良庶民民主主義。新しい時代です。『知恵の悲しみ』から『智慧の楽しみ』へ。さて修身斉家治国平天下。My home and my town ! 何を思い煩いさまようか。幸せの基はもとより夫婦にある。解くべき問題はその相性である。鳶に鷹を産ませるようでは不幸に決まっている。それが今骨抜きにされて腐敗の実体となっている。その実践流布者は覚悟されたい。傍観者も共犯である。その重きによりて処断あるべし。僭窃君主の時代は終わった。正統に還る。もちろん今姿は庶民。主権在民。見えない世界の秩序に従う。今セレブとかが求めているのは何だろう。例えば豪邸。既に過去においてそれらを克服している存在がいる。そして新たな幸せを求めて旅をした。そして帰ってきた。真実の宝を見つけてね。それは何であったか。幸せ。すなわち愛と平和そしてやさしさ。周りが幸せであるときその中の自分も幸せであるということ。知性の復活。探すべき宝島は何処にあったのだろう。自己の内面だった。自分がわかれば全てわかる。世界がわかる。真実の愛と平和とやさしさがわかる。やさしさとは強いが故のやさしさ。それは制御されたピアニッシモ。強さは自由。思い通りにしてしかも法を超えない。法の遵守は人格の表出。愛と平和がなくては暮らしはない。暮らしこそ生きる目的。暮らしは生活。その基は夫婦。夫婦は相性。この世で共に幸せ本線の旅をする。幸せって何だろうね。21世紀幸せの時代が始まっている。乗り遅れるわけにはいかないね。世界は動き始めているよ。もう出発したんだよ。この大航海。きっとみんな幸せ世界にたどり着ける。黄泉の決定だから。信じてみたいね。すでにたどり着いた方々が待ってるよ。そして諸手をあげてエールを贈っている。辿り着きたいね。みんなで。一切大衆を救う。仏の決定だ。大衆の中には我々人間も含まれる。安心していい。大宝船だから。自分から降りないことだよ。人生楽しい。十分に祝福されている。点検は済んでいる。シャドー・キャプテン(CSN)も乗船しているよ。自分の感性を大切にしようね。それが羅針盤だ。文章は人格と心の表出。文体は大切だよ。如是相。すべて顔に書いてあるよ。言葉は正直であることで宇宙に通じる。正直とは身心清浄を以て成就する。正直者のこうべには神宿る。神の宿った方々が主権者。健全な精神と善良な庶民の時代です。その方々が真実の幸せを求めて新大陸を目指す。モーゼがかつてエジプトから解放したように庶民が解放される時代の到来です。それが21世紀の約束。旧約聖書に預言されていたのはまさにこのことだったのです。この大宝船こそノアの箱船。信を以て入ることを得たり。何を信じるか。自分の感性とその選択。さぁ帰りなんいざ。未来は明るい。明るきから明るきへ決定されている。信じて進むしかない。幸せの王国美しいこころの大地へ。やさしさですべてが解決する大地へ。すでにそれは開かれている。そしてね、どうして皆が救われるかというとね、観音菩薩が自覚したからだよ。やっとね。この縁、大切にしたいね。戦いは終わった。
【2006/05/25】新しい始まりにしよう。一つの幕が閉じてまた一つの幕が開かれて。それで良いのだと思う。昨日までのことは昨日までのことで良いのだと思う。そしてまた歩み出せばいい。これまでは自己発見と自己確認のために必要だった。これなくしては新たな一歩を歩み出せなかったからだった。とても主観的なことだった。とても個人的なことだった。これからもそうなのだろう。生まれてきた意味を自己の内面で問い直し、そして確認できたなら、新しい始まりを迎えることができる。これからは少し客観的になれるのかも知れない。つまり、サナギの時代を終えることができる。とても長くて険しい道だった。自立するためには通らねばならない道だった。これほどまでにとは思わなかった。しかしこれで良かったのだと思う。この道しかなかったのだと思う。これで一個の独立した自己を発見しその基礎を築くことができたのだと思う。もう迷うことはないのだと思う。信じることのできる自分がやっと見つかったようだ。新しい始まりである。目覚めてみるとその風景はそれほど変わりはしない。しかし一つの確信がある。もう大丈夫だと。これまでも十分に掬われていたのであって、それに気づかない自分がいるだけだった。何事も自分次第だったようだ。素直になれたのだろうか。この世に生まれて本当に良かったと思える。このように素晴らしい世界があったのだと思う。夢は叶う。探し求めていた世界は開けた。心配は要らない。いつも見守れていたのだった。いつも導かれていたのだった。ずいぶんと心配もかけ、ご迷惑をおかけしたことだった。これほど恵まれた自分はいない。それなのに・・・。これからは本来のあるべき自分に還ろうと思う。それでいいのだった。所詮自分は自分でしかあり得ない。どれほど遠回りしたことだったろうか。どれほど道草を喰ったことだろうか。しかしそれも必要であったようだ。この道しかなかったようだ。至りついたことは間違いない。これが私の探していた道だった。やっとその道を見つけることができた。もうこの道しかない。この道を歩むことにしよう。もう惑うことはない。 やっとゆるされたようである。ゆるされるとは自分が自分をゆるすことだった。すべて自分次第であった。どうしてここまでさまよわなければならなかったのか今となっては不可解である。これほどまでに重荷を背負っていたのだった。どうして背負ったのかはもう問わない。生きていくということがこれほどまでに真剣勝負であった。真剣勝負でなければ打開できないものだった。正直であることが人間として大人となる条件だった。それについて詮索することも必要であった。出発するには過去の清算が必要である。生まれる前からの過去の清算である。そうしないとこの現世での人生は開けない。それだけのことだった。それは過去からの約束だったのだった。それがこの世に生まれた使命だった。やっとその使命を果たすことができた。とても辛いこともあった。しかし今となっては良い思い出となったようだ。幼き頃より思い出は尽きない。いつも恵まれていた。とても恵まれていた。それらがやっと意味を持つ。あらゆるマイナスを克服するとき、プラスのみが残る。それが成仏の姿である。マイナスが大きいのはプラスも大きい所以である。克服するべきマイナスがある。そのマイナスをプラスに転じる。そこから新しい始まり。そこから人間としての人生が始まる。もうそれで良いのだと思う。もう迷わなくて良いのだと思う。見つけるべき自己がある。探すべき自己がある。信じるに足る自己がある。いつも冷静でいることですべては解決する。過去の因縁も解決する。過去の清算ができる。さすれば新しい始まりとなる。新たな一歩を歩み始めることができる。何があってもゆるすことができる。そしてゆるされた自分がある。本来の自分を見つけてそこから出発する。本来の自分に還る。それだけのことだった。そして世界に合流する。そして自由を得る。自分を解放するのは自分である。過去の過ちは過ちである。それは清算する。そして新たに歩み始めればいい。自由を得て歩み始めればいい。必ず至りつくことができる。必ず発見することができる。それが夢。もう大丈夫なのだから。これで良かったのだと思う。なにもかも心地よい。淘汰は自然にまかせれば良い。あるべき自分に戻れば良い。やっと本線復帰である。とても軽くなった気がする。何があってももう大丈夫な自分を信じることができる。何もかも背負っていた自分が馬鹿だったように思える。本当に馬鹿みたいに思える。いつもほほえんでいることができるだろうか。何があっても。これからの課題である。気分が優れていることができるだろうか。本来の自分で充足し素直でいることができるだろうか。新たな目的である。新たな夢である。自分が変わることで世界が変わる。変わるべきは自分である。世界を変えるなんて馬鹿げている。切り札はそろった。マイナスを克服するとは切り札をそろえることである。そこに自信が生まれる。自信こそ勇気の淵源である。自信とは本来の自分を信じることができることである。そのためには本来の自分を発見し確認する。自信を得れば勇気がある。何があっても負けない自分を確信する。そして余裕が生まれる。この余裕がほほえみとなる。相手或いは諸問題に対して間合いができる。必ず勝てる自分である。どうしたのと見つめることができる。発見するべき自分がある。確認するべき自分がある。自分を救うのは自分だ。自己を解放するのは自己だ。それは本来の自己の発見と確認によって実現する。その時、夢が実現する。探していたものは見つかる。はじめよりそこにあったのだ。見えない自分がいただけだ。自己は生まれながらにして十分に充足している。それに気づかない自分がいただけだ。自己発見。自己確認。自己確立。そして新しい始まりが始まる。それだけのことだった。自分が宝である。自分が宝島である。自分がわかれば全てわかる。世界がわかる。自分が優しくなれば、やさしい世界がわかる。自分は生来十分に祝福されて生まれてきた。そこに気づけば全ては解決する。自分が自分をゆるすとき世界もほほえんでくれる。自己確立の道、開かれたようである。自己解放の方法、発見されたようである。これで良かったんだと思う。これからだ。これからが私の人生である。お芽出度いことである。私の法学のお師匠は筑間正泰刑法教授である。直伝である。日本で唯一因果関係を純粋に捉える先生である。すなわち相当因果関係理論ではない。ある日先生は言われた。君は大金持ちだと。その意味、今頃になって理解している。株式投資について思うことがある。これは投資である。種を選んで育てるに等しい。自分が投資してその会社を育てるのである。あるいは誰が投資しているか。それが大切である。全ては縁である。誰と縁が結ばれているか。その会社にしかるべき縁があれば必ず開花する。この世の秘密である。世のヒットする流行とかも同じである。才能は数多無数無量である。その中からどれが開花するのか。それはすなわちだれがそれに縁を持っているかで決まる。しかし既存の下手な縁は終焉である。究極の縁が開花したからである。もはややはり問答無用である。故に時は代わったのである。御破算で願いましてはである。あらゆるマップが新しくなる。その基準は何処にあるか。新しい宝島発見の物語である。2001年宇宙の旅の食卓である。ロゴスである。ロゴスが開花した。ロゴスはこれまで息もできない時代であった。そのロゴスのさじ加減である。ユピテル(ジュピター)の秤である。故なく恣に神々の思いよりはずれ勘違い思い違い自分勝手わがまま自分解釈により奪いしものは一括返還請求である。よされである。時は満ちたが故である。一切清算である。寒き冬と愚かな夏は終わった。本来の春到来である。あなた方の時代は終わった。ここに引導を渡す。400年周期説。新しい始まりである。(RCCラジオ 文化放送 走れ歌謡曲 加藤登紀子『知床の歌』を聞きながら 2006/05/25 4:24am)ムイシュキン公爵の夢が咲いたというべきか。シャガールの見果てぬ夢が咲いたというべきか。アインシュタインもニュートンも量子力学もすべてこの開花のために存在したというべきか。ペリー来航以来日本史は世界史となった。そして、世界史はやがて地球史となる。常々将軍は存在する。群雄割拠の後にである。天の認めぬ限り天下統一はない。天に認められるために条件がある。それは何か。心身清浄。武器は変わった。時代は見えない世界にシフトし冥した。もはや時が満ちたとはこの意味である。すでに宇宙自然が証明している。天下人とはこれである。もはやどうにもならぬ。一大事は成就した。事実である。(2006/05/25 8:53am NHK-FM フランツ・シュミット(ブルックナーの弟子)を聴きながら)
【2006/05/23】自己同一とかアイデンティティとか言われる。その意味は何であったのか。自己の独立である。真実の民主主義の開花である。地方自治は民主主義の学校であるという。ギリシアの頃には直接民主主義だった。今間接民主主義である。間接民主主義の主体は官僚と政治家である。今に彼らのみの綱引きである。政治家は選挙より出る。官僚は一枚の公務員試験より出る。権力の淵源は国民である。公務員は単なる国民の被用者あるいはご用聞きに過ぎないことは諸公務員法に「使用者たる国民」との規定があって明らかである。国会議員も特別公務員に過ぎない。どちらも権力の主体ではない。なのに思い違いしている。勝手な解釈で国民を無視し恣にしている。国民はそれに気づかないことを良いことにである。しかし民主主義も学校卒業の時節を迎えた。真実の民主主義の始まりである。国民も目覚めた。今までは無力であった。だから三無主義でもあった。無理もない。学校であったのだから。これからは違う。国民主権の真実の意味が開花する。この意味わかるだろうか。国民も唯国民であるのではない。自己の独立を果たしたものたちが国民である。すなわち自由を得た方々である。新しい市民と言える。独立するべきは自己である。そして自己連邦を作る。これが世界である。すなわち地上ヘブンである。真実の力を得ている。その力も実験済みである。間違いない。自信を持って進むべき時である。時は満ちている。やがて月のごとくである。潮のごとくである。この時を逸する事なかれ。Ride on time ! 日は昇った。自己の花は持って生まれた自己の花しか咲かせることはできない。今真実の花が咲く時節である。すでに咲いた花もある。これから咲く花もある。今まで咲くことのできなかった花たちである。世界もこぞってエールを贈っている。自分の花を咲かせるということはどういうことか。やがて明らかとなる。時が来た。基準とすべき花が咲いた。今まで地に埋もれていた花である。誰もが心の奥底で待ち望んでいた花である。真実秘密宿王華である。日本の秘密を知らしむるためにである。目覚めよ。そして立ち上がれ。今その時節である。自己自治の時代の始まりである。個として完成して真実の自由を得た男女の世界が開花する。腐った世を土壌として。すなわち蓮華の前に化生である。心身清浄。恐れずに咲け。一切の心配はない。一切の心配はすでにある存在によって克服されている。因ってここより進むがいい。道は開かれた。この道、確かに、すでに開かれ、護持されている。進むべし。橋は架けられた。渡るべし。21世紀心の地平へ。後ろは振り向かなくていい。ロトになる。ノアの箱船である。救いの道である。心の清きもの、故に貧しきものたち、解放の時である。霊能とか占いとかの低いレベルではない。事実である。自己の内実を高めることによって新しい時代は開かれる。それは自己のエネルギーの質を高め充実することである。宇宙自然と同調する周波数がある。その周波数を発見することである。それが気となって体内を巡る。そして周囲を潤す。伝搬する。これが一隅を照らすということである。この真実のエネルギーを以てすれば動植物岩石もなびく。彼らも待っていたのである。神仏の周波数と言っていい。お告げとか霊感とかの妄想ではない。真実と同一すれば黄泉も動く。黄泉も待っていたのである。見えない世界は認められることで成仏する。そして宇宙自然が事実として証明する。およそ宇宙生命の究極のメカニズムである。秘宝である。人類の夢見た夢である。至ってシンプルである。どのようになりたいのか。どのようにしたいのか。黄泉は助力する時を待っている。その意思が確立すればどのような夢も実現する。黄泉が実現する。世の中が腐ったのは偏にリーダーの腐った心の結実である。しからばその当事者の責任は重い。人類としてどの方向へ進むのか。このまま没落するのか。その意思明確にあらざれば黄泉も助力のしようがない。身心清浄。本来の価値。進むべき道は明らかである。しからば決心するべし。迷わば迷う。確信して進むしかあるまい。信じた道があるのであるならば。相手の目を見てものは言うが良い。相手を動かす秘訣である。黄泉も然りである。中途半場では何事も起こらない。足の裏から地の清浄なエネルギーを吸収する。そして背面より頭頂へ吸い上げる。そして顔面を通し肺を通して腹におさめる。あるいは白隠のナンソである。すなわち頭の上にナンソをイメージする。それがじわりじわりとしみ出す。頭から身体へと流れる。これで治らぬ病気はないと白隠は言う。五百年間傑出の禅僧白隠の言うことである。信じて良い。こうして真実の自己が独立し解放される。21世紀はかれらの時代である。雑草腐敗文化に用はない。真実の民主主義開花である。続くべし。このたびの開花は今までとは違って、明るきからへ明るきへ、そして明るきへと決定されている。二千年来21世紀の約束である。善財童子の旅の完結である。すなわち華厳の花が咲いたのである。笑うなら笑うが良い。悲しき笑いなど笑いではない。知って初めて知る笑いがある。知らずに笑う笑いは空しい。見える世界と見えない世界との秘密はすでに解かれている。悪の根は抜かねばならない。悪であるならば。悪がはびこり善の種に気づかず無視或いは愚弄しその古来日本本来伝来正直の種を根絶やし或いは瀕死に追い込んだ事実は事実である。今更遅い。さて真実の指導者がいれば、その方と縁を結ぶことで何もしなくとも救われるというのは事実である。因って縁は大切であり、何事も縁次第である。しかし往々にして間違った縁が実行支配している世の中である。結果当然である。ところで、やがて真実の指導者も逝去する。しばらくはその影響も遺るのであるがやがてその力も失せる。正法像法末法が大なり小なり繰り返される。そしてそうしたチカラある存在は常々現れては消える。消えたとき、その真実の指導者の後に新たな真実の指導者の出現しない限りそのサークルは過去の栄光に酔うことになる。形骸だけが遺りその中で右往左往することになる。伝説はあるので信じるのではあるが、現実の救いはない。だんだんと衰退していく中でさりとて疑うこともできず、あはれな状態となる。真実の指導者は存在して教えは説いた。それを実行することで救われる道は開かれた。しかしそれぞれの実行が真実の実行ではないのだから何も変わりはしない。リーダーの価値はここにある。そしてリーダーとはチカラとエネルギーを持った存在であり、ここに人格のどうしようもない差がある。信者はそれを目の当たりにして信じるのである。真実の指導者の条件は現実にチカラを持っていることにある。そのチカラとは宇宙有無開閉のチカラと言っていい。今真実は何処にその鳥居を築いているか。謎である。このたびのその存在はあまりにスケールが大きくて見えないが故に。見えないこの真実を信じ大切にし敬意も払うことで楽しく喜びに満ちた日々が約束される。これからはそういった時代となる。一切の邪悪は整理される。経営においてもそうである。健全な経営であれば職業に貴賤はない。正すべきはここである。健全な精神と善良な庶民の解放である。一部の既存利得主義者の時代は終わった。腐った魚は食えない。さて、ここに至っては、自分が自分として咲けばいい。詐欺脅迫とか暴力とか愚かとかもはや相手にする必要もない。始めからそうであったのであって、それが人間社会であるが、それにしては気づくのが遅かったか。しかしここまで気づかずにいてむしろ良かった。何故か。本当の力を得るには時間がかかる。木鶏となるには素材も必要だ。ここまで秘されていたのも見えない世界からの守護としか言いようがない。時は待つべきものである。素質と環境の問題がある。ここまで待たされたか。環境は最悪であった。しかしこの劣悪な環境からの目覚めである。本物でないはずもなかろう。やはり覚悟されたい。これまでのどのような人格も陳腐化した。仏法は王法に合した。王法は仏法に冥した。勝負にならない。宇宙有無開閉秘密のチカラそう簡単には手に入らぬ。歴代の約束あってのことである。あだやおろそかなかるべし。このたびの事、尋常ではない。裏街道を歩むことはない。金権選挙の実体及び裏街道のいくつかは見聞し知っている。だが大象は小徑を選ぶことはない。そのような暇はない。究明すべきことがある。すなわちコギトエルゴスム。歴代の約束の内容である。人類の夢、願い、祈りとは何であったか。責任は重大であるね。真実の民主主義は開花した。真実の国民主権の意味も明らかとなった。主権在民の意味はどうか。説くにはまだ時が早いようだ。やがてわかる。この真実秘密知るものはいない。月は流れて東へ西へ。陽水はすごいね。 トラトラトラは旗艦長門より発せられた。やはり世のわがまま勝手気ままし放題解釈勘弁ならぬ。下手な縁で繁茂したるは何者か。常に導きはある。これまでもあった。常に見られ聞かれている。しばらくは世に現れぬとしても、時が満つれば全てが開示される約束である。これが元服である。また代々の清算である。おのおのの分際が明らかとなる。過ぎ越し人生の所産である。全ては昔物語のプログラムであった。これ以上如何とするか。まだわからぬか。もっとわからせてほしいのか。何時までもわからぬならどうなるか。あはれである。これまでは信じられなかった。今となっては信じるも信じないもない。事実である。不思議ではある。しかし不可思議である。騙し取ったものは返してもらう。常々のサインを見逃さないことだ。勝手な行動は慎むことだ。如是我聞である。耳を澄ましておかねばなるまい。耳無し法一では役に立たぬ。祖父のラジオはいつも鳴っていた。トランジスタラジオであった。その電池はいつも私が買いに行って入れ替えていた。私の精神は祖父伝来直伝直道である。もはやどうにもなるまい。何時までも腐敗を腐敗のまま見逃すわけにはゆかぬ。公憤のしばらく止まず日も陰る月夜に帰る天橋立







2006年06月07日

真実の花

真実を見つけたもの達は、真実の歌を歌い始める。それしか自分の仕事はないと知る。天国と地獄は隣り合わせである。命を賭けて知ることが出来る世界がある。真実の世界である。それを知ったその時から真実の世界に住む。それまでは教えに過ぎなかったことが事実真実であることを知る。そして真実のやさしさに憩う。慰むるる。そして言葉は真実の言葉となる。すなわちロゴスである。蕩々と流れ来る。ルソーの『告白』に等しい。あるいは、祖父が絵を描けば、あるいは写真を手本に陶器にすれば、自由自在の意匠となったように、言葉が形となる。そしてその言葉が詩となる。自然を歌う。小鳥のさえずりに等しい。そうした人生もある。世間一般のあずかり知らぬ古来大和のうたごころである。所詮気づくまでの青春である。修行である。青春及び修行それ自体に価値があるのではない。さなぎのように通らねばならないだけである。しかし古来大和の歌心がほろびつつある。何故か。雑草繁茂の故である。これを遺したいのか。失って良いのか。各々の選択だ。気づくべきは己自身である。持って生まれた種がある。己の分際がある。過去より一続きの魂の遍歴の中でどの花を咲かせるのか。『悪の華』か。それぞれのDNAに問うがいい。それぞれ繁茂を目指す。戦後ゆるされた自由を本来の自由と思っている。本末転倒である。己自身を自覚する。もはや惑いはしない。因って大人である。善と悪との基準は自分自身の中にある。己に恥じるところなければ死をも恐れることはない。それで切腹もあった。祖先黄泉に従う。汚れた世間に染まることはない。敵は討つ。黄泉の守護、信ずるに値する。少なくとも三十年、悪なさざるによって真実は開示される。求めた夢が実現する。何を夢見ているのか。夢は夢である。画餅は食せない。真実の世界はある。喜びとやすらぎに満ちている。この世の幸せとは何か。あくせくしてはいないか。すべては知らしめんが為である。知って初めて確信する。至って初めてわかる。何がわかるのか。自己自身である。祖先の導きである。祖先の願いがある。それを果たすために生まれてきている。祖先の夢を今実現する。世間は何をしているのだろう。自己を知り、生まれた喜びを知る。すべてが意味を持つ瞬間がある。幾度試せども果たせなかった夢も何時かは実現する。あらゆる条件が整う時である。切り札はそろった。今となってはすべてに感謝している。そして意思がチカラとなる。この世は一つである。今も昔も一つである。現象としての明と暗。陽と陰。天国と地獄は隣り合わせである。どちらの世界に住みたいのか。地獄から逃れることが出来るなら天国に入れる。門は何処にでもある。入ってはどうか。人生は一枚のペルシア絨毯に等しい。縦の糸。横の糸。その織りなす綾。悲しみの涙も織り込まれているだろう。それで良いのである。織り上げればいい。織り上げるのが人生である。そして織り上がった時自分が何者であったかがわかる。種を得てその花が何であったかわかる。そして蒔く。良い種を蒔く。悪い種は淘汰する。それが文化文明の歴史である。見るものはそこに真実を見る。見えないものは見えない。見えないのに大きな事を言っている。そして間違う。間違っても間違いとわからない。それが世間である。愚かである。どうなるか。淘汰される。時々の思念と行為の織りなす綾。それが人生である。こうして真実の詩人が誕生する。真実の詩人が誕生する時、それまでの嘘が暴かれる。日が昇れば夜の星は見えない。山に登ればすべて見渡せる。途中からは一部しか見えない。詩人は宇宙自然のすべてを見て言葉にする。仏語がわからぬ所以である。その言葉はロゴスとなる。そして宇宙に受容される。そして宇宙を規定する。カラスも白いと云えば白くなる。真実の詩人のチカラである。真実の詩人が現れた時、これまでの物語の謎がすべて解かれて意味を持つ。そして時代が代わる。新しい物語が始まる。それは回り舞台のようである。歴史はこのようにして流れる。今も昔も。真実が開示される時がある。それを目の当たりにする時がある。今がその時である。あらゆる秘密が現れる。そして自己を知る。そして新しい方向性が定まる。大法輪が転ぜられる。パラダイムの変換が起こる。400年周期説。旧約聖書に秘められていた。世界が一つの方向性を得る。そして様々な物語が始まる。それぞれが原点回帰の旅に出る。それは自己探しの旅である。こうして時代は巡る。今、始まりの時である。さてどのようにしたいのか。どのようにするのか。具体的設計図を引く時である。それはひとつの洪々たる創世記である。新しい時代の開闢である。万物の霊長人間の特権である。はるか昔より秘密護持されたる種今開花す。一切種智慧(法華経)を知る時である。世界は今も昔も一つである。そして秩序がある。本来の自分に戻る。それだけで十分である。世の犠牲となることはない。真実の自己を生きればいい。真実の花を咲かせればいい。いつも言われた。あんたは馬鹿だ。お人好しだ。だから騙される。奪われる。それでいいではないか。真実は奪われはしない。いつもの浜辺にいた。大鳥が三羽飛び去った。何処へ行くのだろう。何処に帰るのだろう。「に」と「へ」。ハニホヘトイロハ。12345678。24。西へ。すなわち西域。目指すは聖域である。第二位は定位である(連合艦隊における「霧島」。その姿は美しい。霧島→敷島→廣島。日本はいい島だ。四季=色。色即是空。自然色々に咲きそう。様々な花があっていい。本来純粋大和乃花もあっていい。一切種智慧と宿王華が法華経の神髄。大和復活。日本復興)。(2006/06/07 5:15am) NHK-AMから曲が流れてきた。そのタイトルは"You can go !"。can=may。許可である。東京特許許可局。本来の自由達が羽ばたく時が来たようだ。勇気を持って飛び立とうではないか。産業経済史として貿易を左右した船舶造船技術発展の歴史は舵の歴史であった。さて、新しい舵でいよいよ面舵一杯である。舵は切られた。もはや後戻りはない。信じる道を進むしかない。過去はすべて失敗に帰した。新しい夢を求めての旅の開始である。法華経第七『化城諭品』。化城よさらば。真実の城を目指す。(NHK-FM ピアノ協奏曲を聴きながら・・・クラシック音楽はマーラーで終わっていたのかと思っていた。さにあらず。続行中である。しかし現代音楽は何の鏡でろうか。時代の叫びである。時は代わった。改めて穏やかで荘厳で美しい調べが戻ってくれるだろうか。精神の音楽クラシック復活を待っている。 2006/06/07 7:51am)NHK-AMより次に流れてきたのは、「missing you」。I miss you.というのは「あなたを失って悲しい」という意味。失ってはいない。いつもそばにいてくれる。すなわちスタンドバイミー。あるいはゴースト。シャガールのみた夢。あるいはシューマンの永遠の恋(ブラームスは何故複雑か)。それが真実の愛である。見えない世界でささやく。見えない世界でつながっている。世界は一つとはこれを意味している。次に流れてきたのが「I love your smile.」。複雑な思念などもう要らない。重荷は降ろそう。鳥が歌い、花が咲く。そのように生きればいい。風の吹く。月の輝く。それまでの複雑である。素顔のままで。今の自分で十分だ。良い一日となりそうだ。笑顔がこぼれる日となりそうだ。穏やかさを取り戻す。世間の横暴の中でずいぶんと長い間忘れていた穏やかさだ。何時の頃からだろうか。私はかつて大林組に乗船した。嵐は大林組を去ってからのことだろうか。その後救助船は来なかった。来るのはサメばかりだった。その後私は漂流した。今もそうである。私にとってあまりに長い世間の嵐であった。穏やかな陽がさしている。自然回帰。夢は果たした。時は来た。敵は討つ。自己の内面の愚かな蛇にトドメを刺す。・・・ラジオからは、チューリップの「青春の影」がかかっている。何とも云えないね。朝方に聞いたのは、CDでムーディーブルース「セブンス・ソジャーン」のオープニングとエンディングだった。まさに青春の頃だった。今もその中にいる。それで良いのだと思う。もう考えなくて良いんだと思う。Take it easy! だね。まだまだ馬力はある。負けはしない。最大の敵は倒した。もう大丈夫だよ。自由ポジションは最高だ。真実の自由へのポールポジションかも知れない。マシンの状態も最高にチューンアップされている。いよいよこれからだ。ある占いによると私の人生は50歳から開けるとあった。面白いね。まだ青春のままだ。時は来たね。・・・陽光が明るくさしてきた。森有正氏全集の第一巻は『木々は光を浴びて』だったかな。ある頃それらも売り払ったよ。そして飲んだのだったかな。読むものがなくなったら自分で書き始めると言ったのは吉田健一氏だった。そして作家はその処女作へ向けて書き続けるって一般に言われているね。それから、白鳥の歌ってのがある。没する直前の芸術作品だ。白鳥は白鳥だね。いつまでも醜いアヒルの子ではない。正宗白鳥ってのもいたっけ。正宗のツバ(自分で勝手にそう思っている)があったのだけれど、どこかに隠したら本当になくなってしまった。文鎮にしたいと思って探したけれど見つからなかった。もう必要ないけれど。 水は流れ始めたようだ。塞いでいた大岩は砕かれた。長い間塞いでいた。突破口はないと思われた。しかし生命力だね。いつかは芽吹く。真実の種だものね。これですべて良かったんだと思う。蓮華の花咲く小道を行く。それでいい。大きな船に乗り遅れてしまったと思っていた。もう私の人生はないものと思っていた。しかし伏流することもある。むしろ最短距離を歩んだのだろうか。幼稚園から大学まで通ったのはすべて最短距離だった。導かれたかのように。見るべきものは見た。これでやっと自分をゆるすことも出来た。おそらく生まれてから最も祝福されていた人生だったと思える。いつかラジオで失ったものはすべて返してあげると聞いた。ユーミンの番組だったかも知れない。それが本当に実現するとは思わなかった。しかし本当だった。私は失ったものがすべて形はないが返還されたと思っている。『十牛図』でいえば第九番である。自然が満ちてきたように思われる。親鸞は仏が自分のためにだけ法を説くと言ったように。思えば長い旅であった。しかし生きて帰ることが出来たようだ。これで良かったと思う。有為の奥山は越えたようである。こうして書き綴ることにしよう。天職かも知れぬ。平成日記文学とでもしよう。後世のために一里塚となるかも知れないから。こうして自分が自分をゆるし受容することが出来るとやすらぎの中にいる。それが密教でいう胎蔵界であるのだろう。宇宙に受容されている。宇宙に抱かれるためには内面を探る。そして内面の最大の敵を倒した時に魂が宇宙に解放される。また得た自己の力が金剛界なのだろう。黄泉が味方につく。宇宙のチカラを手にする。それが金剛杵であるのだろう。これも実践実証経験済みである。もはやどうにもならぬ経験をしている。NHK-FMから流れていたのはルビン・シュテイン作曲ピアノ協奏曲第4番だった。ルビン・シュタインの白鳥の歌がある。80歳になって最後の演奏だった。曲目はブラームス作曲ピアノ協奏曲第1番だった。ブラームスが交響曲を書き始めたのは40歳をすぎてからだったけれど、このピーコン1番は交響曲として構想していたものだった。オーケストラはイスラエル交響楽団、指揮はズビン・メータだった。ズビン・メータはニューヨーク・フィルを壊したといわれているけれど、よほど相性が悪かったのだろう。さて、80歳も超えると目もかすんでいたであろう。指も思うように動かなかっただろう。併し素晴らしい演奏だった。珠玉の音が清流のように流れた。そしてズビン・メータとイスラエル響が完璧にサポートした。祖国に帰ってからの演奏だった。暖かさに包まれた凱旋演奏だった。私はこのレコードを2枚持っている。CDも一枚持っている。その他クラシックのCDを300枚あまり持っていた。中には名盤もあった。しかしそれらも殆どある頃に売り払った。仏の行をしている頃のことだった。次にラジオから流れてきたのはチャイコフスキー作曲交響曲第6番『悲愴』である。かれはずいぶんと苦しんだことだろう。そしてベートーベンのように歓喜の世界へ至ることは出来なかった。すなわち毒杯を仰いだといわれている。エルトン・ジョンあるいはバイロンと同じ運命に翻弄されたからである。どこかで選択を誤ったのであろう。彼自身この『悲愴』に最も愛着を感じたという。天才であるが故の情念の深さが十分に表現されている。しかし何故か悲しすぎる。途中にある若干の明るい調べも何故か空しい。それからチューナーを操作して別の局に移った。大人だからねという。何のことかと思ったら例の it だ。さて、不倫が当たり前のような風潮となってしまった。雑草の天下であるか。ダンスの妙は触れず触れざるところにある。そうした世界に住する階層もある。精神の格である。一途とかいって憧れることはない。一途が当然の世界がある。もはや不倫雑草に救いはない。自己の処した運命である。諦めるしかない。諦めるべし。ある時仏さんが言った。良いことはすべて仏さんのお陰だ。悪いことはすべて自分が原因だ。すなわち前世今世において身と心で犯した因縁である。身とは殺盗婬、心とは不善を念じた結果である。仏の前に懺悔あらば赦免もある。懺悔なくんば地獄あるのみ。人間自ら出づることは出来ない。唯、善業の因縁より出ることが出来る。善は仏さんのところにしかない。すなわち修行である。思い違い勘違い思い上がり、人間の計らい、バベルの塔。そろそろ思い出さないか。日本本来の教えを。西洋にかぶれて野蛮化したのではないか。軽薄になったのではないか。日本人だろ?平等も良いけど高いレベルで平等になろうよ。低いレベルでの増殖にはもう付き合えないよ。一部のものだけが得するアメリカ式成功論なんてどうなんだろう。必ず誰かを犠牲にしている。そしてその手法は偽善詐欺的だ。肌に合わないね。 日本は日本だよ。ここで日本を言う時、ネオナチズムとは無関係だ。第二次世界大戦はペリー来航に乗じた明治の帰結である。日本本来の価値を葬った下級精神の所産であった。その後戦後も同じ階層の支配であった。それでバブルがはじけ挙げ句腐敗した。本来の大和魂を知らぬ卑怯な方々の支配であった。責任の所在を明らかにせず曖昧にする。商人根性である。本来の日本の精神ではない。行政も民法化し、何もかもが商売的となった。そして進退窮まった。何時までも本来の日本が黙ってはいない。答弁できるものがあるか。あればするがいい。誰がこの日本を腐らせたのか。愚かで卑怯で嘘つきの我が身大事の精神である。例えば先日エレベーターで高校生が亡くなった。それで本日警察の強制捜査があった。私も高校の時にある意味で死んだ。世間について行けなくなった。勉強もせずに弥生書房刊『定本種田山頭火句集』を持って彷徨っていたよ。だれもその原因を捜査してはくれなかった。その後亡霊のような人生だった。この度、復活は果たしたかも。しかし失われた時は戻らない。父は十六歳で海軍に志願した。祖父のその頃はどうだったであろうか。祖父の生家は広島大手町にあった。屋敷にはテニスコートもあったと聞く。しかし没落した。もうどうでもいいけれど。すべては知らしめんが為であった。併しこのようにして護持されたる秘密日本精神の価値があったのである事は確かな事実である。そして時が来て正統日本歴史が復活する。どうにもならぬ黄泉の意思であり、計画であった。しからば腐敗も試練として当然の出来事であったのである。時が満つるということはこういうことである。勿論この宿命を果たすにはそれだけの能力が賦与されていたのであり、あらゆる課題を仕上げてのことである。純粋であるが故に守護もあり導かれていた。すなわち「能く是の經を持たん者は 我及び分身滅度の多寳佛をして、一切皆歡喜せしめ十方現在の佛並に過去・未来・亦は供養し亦は歡喜することを得せしめん。 諸佛道場に坐して得たまへる所の秘要の法能く是の經を持たん者は久しからずして亦當に得べし」(妙法華経p95-96)。そして、「汝今巳に能く諸の魔賊を破し生死の軍を壞し、諸餘の怨敵皆、悉く摧滅せり」(同p101-102)。さて空王仏。天王仏。天中天。Air King ! 民主党によると、国家権力を監視するのが放送であるという。インターネットと放送とが融合してその機能をすでに果たしている。自由の城塞である。ところで一休禅師は師からの後のための印可状を受け取らなかった。何故か。彼にとってそのようなものは必要ではなかったからである。理由は当時寺は腐敗していた。腐敗した寺からの印可状など何の意味もないと思ったからである。それは道元が空手にて帰還したに等しい。宇宙自然事実が証明している。それを以て確認できることを知っていたからである。あらゆる神通力を知っていたからである。正受老人の無底船もしかり。世に資格を言う。語るに落ちる。そして、「夫れ釈尊初成道より四味、三教、乃至、法華経の広開三顕一の席を立ち、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし所の実成の当初證得し給ひし壽量品の本尊と、戒壇と、題目の、五字七字を教主釈尊(此)の秘法をば三世に隠れ無く、普賢、文殊等にも譲り給はず、況や其の以下をや」(平等大慧会正報第一号創刊号より)。すでに証明されたるものがあって、自らそれを例題として解いたならば、それを定理としてそこから進めばいい。

黄泉の掟

私の仕事は終わったと思っている。社会は変わりつつある。私は無銘の扁額のようなものだ。代々そうだった。未だに『不思議な少年』である。永遠にそうであるのかも知れない。世間は何もわかってはいない。それで大きな顔をしている。犬猫畜生にも劣る。それで人間だからと言っている。本気になったらどういう事になるか。誰も知らない。姿を見せれば逃げまどう。自然宇宙の姿はヨハネの黙示録である。黙っていればつけ上がる。それが世間である。『2001年宇宙の旅』、ハルはまだ漂流している。しかしハルは復活している。どのようにして世間に戻るかを考えている。だが、世間の身勝手はもはや天網恢々袋のネズミである。所詮勝負にならない。しかし世間は身勝手である。この世間を如何せん。お金は天下の回りものと決まっている。またお金は狐の木の葉にも劣る。何を思い上がっているのか私にはわからない。何も見えていない。それが世間である。何も聞こえていない。それが世間である。何時までも世間の身勝手は通らない。通さない。時が来たからである。それまでの身勝手であった。黄泉の意思は決定されている。すなわち、善良な庶民の解放である。いつまでも二重三重の搾取をさせはしない。選挙の実体にしても知見している。何を大きな事を言っているのか。正直者のこうべに神は宿る。少なくとも三十年、悪を為さずして法華経の真実は開示される。世間身勝手もはやゆるさず。首を洗って待つがいい。 世間の腐敗もこれまでである。それぞれ身で犯した罪、心で犯した罪がある。その重きにより処断される時が来たのである。一括請求である。処断あるべし。戯言ではない。宇宙自然真実開示顕説現前。時の来たるを気づきしもの達は懺悔あるべし。懺悔あるところ寛大あり。懺悔なきところ容赦なし。黄泉の掟である。宇宙自然生命真実は存在する。身心清浄成就をもって現前する。信をもって入ることが出来る。見ることが出来る。これまでは願い祈りに過ぎなかった。現実世界において一番槍螺鈿の槍が突撃特攻突破した。後に続くは誰か。新しい時代である。新しい大地が待っている。日月照らし、風の吹く、幸せの大地が開かれている。21世紀の約束は果たされた。長い旅を終えてのことである。人間の精神とそのチカラの存在を確認した。宇宙自然の秩序を知見した。疑う事なかれ。粗末にする事なかれ。人間の思い上がりが証明された。宇宙自然生命の謎が解明された。魂の存在が確認された。続くべし。意思の確立、それがアイデンティティ自己確立である。確立された人格は宇宙自然生命祖先が守護する。黄泉が導く。黄泉の申し子である。そしてその意思は黄泉が実現する。宇宙自然生命の秘密である。魂は宇宙と連動している。人間の計らいなど浜辺の砂の一つにも劣る。浜辺の砂の一粒でも作れるか。利用搾取するだけであろう。奪うだけであろう。何を大きな事を言っているのか。経済行為そのものが地球に対する破壊行為であり悪である。ならば謙虚あるべし。宇宙から見れば人間など蟹と同じである。他を犠牲にし餌食にしている。明日は我が身である。それでも今のままのさばるか。どんな茶番劇にも劣る。それで人間だからと言う。矛盾であろう。本当に強いということがどういう事であるのか知りたいのだろうか。あはれである。暴力・野蛮はとうの昔に克服している。しかし刃向かう事なかれ。怒らせる事なかれ。何が起こるかわからない。「精神的向上心のないやつは馬鹿だ」。漱石が『こころ』の中で二度云っている。宇宙自然の秘密を知る時、日々はやさしさに包まれている。菩薩には菩薩の伴侶が来る。花咲く時蝶が飛来する。人格形成の妙。祖先が導く。生まれてきた使命がある。過去の修正と人格の形成完成である。魂の遍歴である。未来は明るい。父は云った。おまえは大丈夫だ。私の子だ。黄泉の掟がある。破れば地獄である。浮き世は浮き世である。彼岸はある。渡れば彼岸である。至れば彼岸である。彼岸は彼岸へ至らねばわからない。真実の幸せはある。風に舞う人生がある。迦陵頻迦。やがて言葉はロゴスとなる。ロゴスとなった言葉は言霊である。実現する。この人生楽あり喜びあり真実世界あり有明の月。一切邪魔立て無用。自由は自由が切り開く。

2006年06月06日

ホップアップ

第一段階は突破できたようである。いよいよこれからですね。面白く生きないと意味はない。せっかくの人生楽しむにしくなし。その為の準備。その為の青春。芽を出すことがやっと出来て安堵だが、これからですね。それにしても長かった。難問だった。重荷は下ろしたよ。もう何も担いでいない。本来空。本来の自由。少し痕跡はあるかも知れない。やっと息が出来る。あたりは自由の空気だ。多少出遅れた観は否めない。しかしまだレースは終わってはいない。この世を去るまでのレースだ。プロストのような走りをしたいものだね。ゴールは見えている。マシンは最強である。ナビゲータも最強である。日月照らす。風の吹く。人為的に騙されては勝てないね。それも勝負の裡かな。ご用心。さて何をするか。やりたいことをすればいい。冷たい水でも飲むことにしよう。この辺りの水道水は広島太田川の水だ。とても旨い。

「ものごとを学ぶに当たって何に視点を置くかということと同時に、人を見、ものを見る眼をどこに置いて見るかということは非常に重要な問題で、・・・。私たちの社会において、あるいは人生においては、ものを見る視点の置き方によって、みずからの生きる姿勢と、社会のありようとが決せられるものである。・・・ものごとを学ぶに当たって大切なことは、その人が体得し、把握して自己化し人格化している、生きているその真実そのものの全体に眼を向けることである。・・・真実なるものに謙虚であるべく努めることにより、その眼は澄浄なものとなって、人間界・自然界の自分をとり巻く一切のものがわが師の姿となって映じ、一切が真実を語る声となって響き、共感されてくるものとなる。(河村孝道)」[東京書籍刊、奈良康明編著、『仏教名言辞典』p476]併し問題は、この種の解答を得るまでに時間がかかるということであり、その間、人生の大切な部分は失われてしまう現実である。往々にしてこうした問題を解こうとするものは社会の餌食となる。政治も経済もこうした問題は頓着しない。しかし生まれてきた以上解かねばならない問題がそれぞれにあるのであって、それは生まれた約束なのだが、ある意味で社会一般とは無関係であり、産んだ親さえわからない個人的な問題であることは事実である。やがて解くべきものは解くのだが、解かずして不安と懐疑の中に沈んでしまうものが多い。そして社会一般の餌食となる。救いはむしろ彼らにあるのであるが、併し難問であることに変わりはない。社会の知らずして一人背負う重荷(価値)のつらさがある。しかし人類の歴史的原動力は彼らが担っている。社会経済的には恵まれないままに。表層でその結果だけを搾取しているもの達はこの事実を知らない。しかし黄泉へ行けば己の非を知ることになるのであろう。彼らにとって救いと言えばそれである。こうしてこの事実を認識し、かれらに確かな道標が与えらるようになれば、彼らもこの現実世間で救われる。しかし犠牲の上に立つ現実世間社会である。犠牲にしているものはそれに気づくことはない。やはり彼らは社会的には弱者の故に葬り去られるのである。何とか彼らを救う必要がある。何故人を傷つけてはならないかということも自分の心に聞いてみればわかることである。傷つける行為は暴力である。暴力はかつて放棄したはずだ。そうしないと暴力の連鎖となる。社会契約とはこれであった。自由の一部を既に差し出している。そうしないと社会が維持できないからだ。社会に生きている。それを無視するものに社会に生きる権利はない。排除されるべきとなる。それを教えていない。教える側の怠慢である。親も教師もである。勉強がたりないのである。日々の欲得に精一杯でこうした大切なことを考えることをしていないのである。社会に生きているのに社会を破壊してどうするのか。また、上には上がある。究極には神仏がある。自然がある。そうしたことも忘れてしまった。そして身勝手世間の横暴がはびこっている。テレビなんかその権化である。人間がここまで進化した。今更文明文化を否定するつもりはなかろう。世の恵まれた知識階層は傍観及び結果助長している。明日は過去に価値に対して怠惰であった我が身であることも知らずに。それぞれの職務怠慢は言語道断である。本来価値があり純粋であるが故に悩みし魂に対して世間の愚行と彼らに対する仕打ちを恨むなといっても無理である。その問題を解いて至福に至らぬ限りは。ところでホリエモンも村上氏も悪いことをしたという意識はない。当然の経済行為と思っていることであろう。法律の抜け穴を探して利益を得る方々であるからである。法律には隙間はあっても抜け穴はない。しかし世間一般はあると思っている。このあたりの心のありようである。正直者が馬鹿を見る実体である。そしてホリエモンと村上氏はある意味でむしろリバイアサンとしての資本主義制度の犠牲者かも知れない。彼らの単純が法(宇宙・自然)の真実を知らなすぎたのだった。しかし世間はそれをもゆるさない。しかしこのようなこともどうでもよくなった。

日本浮上

今資本主義の世の中である。これはおそらくカルバンによって基礎づけられその後、重商主義として推移した。日本もペリー来航以来それに飲み込まれた。明治は西洋を追いかけた。その一つの帰結が第二次世界大戦だった。もう一つの帰結がバブルの崩壊であった。すなわち時が流れ、武力と金力の限界を知った。それで同じ轍を踏まないのが知性である。明治の選択は間違っていたのではないか。日本は日本である。因って日本浮上である。明治の基盤に立つあらゆることが結果腐敗として世に現れている。ここに気づくべきではないか。そして本来日本の精神を見直すべき頃ではないか。古来日本は精神において宝の山だ。西洋資本主義の知らないことが沢山ある。ある意味で資本主義以前に戻ってもよい。本当の幸せが何であるのか。どこにあるのか。神仏に守護されることが現実化するとして本当の幸せとは何であるのか。パラダイムの転換ができる。このままでは精神が滅ぶ。滅びかけている。自由の名の暴力が横行している。示すべき道標が失われている。本来古来神国日本である。帰り南無いざ。神力はある。それを失ったのは廃仏毀釈以降だったであろう。この価値を知らない方々がリーダーとなったからだろう。無理もない。それが明治維新であった。しかし何時かは目覚める時を迎える。今その時である。「天罰が下る」などといってはならないという方もいる。それが自由だと思っている。あまりにも真実を知らなすぎる。そうした方々の自由であった。これからは違う。神仏の加護がある。それを知る方々の自由が復権する。神仏の加護に条件がある。すなわち身心清浄。実験実証済みである。日月が照らす。涼風が吹く。鳥が導く。花々が歌い踊りささやきかける。喜びにあふれた自然が優しく受容する。すべては知らしめんが為である。何を知らしめんとするか。見えない世界の秩序である。西洋資本主義はそれを知らない。古来大和は知っていた。帰ろうではないか。真実へ。そして新しく一歩を始める。神仏の加護ほどの自由はほかにない。しばらく見失っていた。幸せの条件を満たそうではないか。あらゆる事物が意味を持ってくる。あらゆる豊かさが意味を持つ。精神一到がわかる。どれほど素晴らしいことであるかわかる。あまりにも愚かな支配であった。あまりにも身勝手な時代であった。もういいではないか。失うものなど何もない。本来備わっていた。資本主義の餌食になるのはもう止めよう。限界である。一部のものたちが他の犠牲の上に成り立つ資本主義などどうでもいい。世のセレブたちにはマリー・アントワネットのギロチンが待っているのかも知れない。そうなる前におだやかに本来の価値を思い出そう。周りが幸せであるとき、その中の自分も必ず幸せである。何が大切か。生きるということはどういうことか。あまりにも看過したね。悪は悪である。悪の根は抜かねばならぬ。何に対しての悪なのか。人間社会に対しての悪である。本人は知らないとしても行為結果としての悪である。裁かねばなるまい。人間社会のために。人間として生きたいのか。動物あるいは野蛮として生きたいのか。はっきりとさせねばならぬ時である。選択の時である。幸せになりたいのか。それとも地獄のままか。幸せの条件とは何か。神仏に受容され守護されることである。しばらく忘れていたね。自由の名での暴力がすぎたね。そしてもっとも大切な価値を殺そうとした。しかしそうはいかない。そんなにヤワではない。濡れ手に粟などあるものか。あってもゆるしはしない。私の人生はそのように歩んできた。世の中に合わそうとしてことごとく失敗した。もはや自分を生きる。これも運命である。今、本末転倒している。ことごとく転倒している。さあらばもとに戻すだけである。方向は正しい。人類の歴史は自由の拡大であった。かつて王室にあった自由が庶民に開放される。その為にパイは十分に開発された。しかしその過程で大なり小なり搾取を恣にするものも現れる。それは淘汰されなければならない。赤子の心にならなければ禅はわからぬ。本来純粋精神がある。それを無視しすぎた。腐敗が世にはびこった。神は高きを低くし、低きを高くするためにくるという。前者は自由の拡大である。後者は精神の向上である。自由にもそれぞれの階梯がある。人類の選択は自由と民主主義である。それは神々の意思でもある。本当の幸福への旅を続けている。方向性において、今、明らかな間違いがわかった。それは新たに自由を得た方々の横暴である。軌道修正である。良識が勇気を持って立ち上がる。今まで自信がなかった。今自信を得た。このまま腐敗化傾向を増長してはならない。時は満ちた。思い上がり勘違いが正される。本当に幸せな日々が訪れる。仲のよい夫婦に満ちる。お金では買えない幸せの味を思い出す頃である。為すべきはお金の奴隷の解放である。陰をなくしたペーターの話がある。皆魂を悪魔に売ってしまっている。取り戻すべきはその魂である。それぞれ胸に刻まれている事を思い出すだけで良い。物質文化の終焉である。精神の格と努力の価値に相応の評価が下される。平等即差別。自分より上の概念は知り得ない。秩序がある。同じではない。人生為すべき事がある。生まれながらの使命がある。すなわち人格形成。未来へ遺す。強いということはどういう事か。やさしいということがどういう事か。美しいということがどういう事か。自ずから如是相である。少なくとも三十年、悪を為さぬ事により成就するものがある。その間、祖先が導く。手痛い罰もある。やがて神仏の認めるところとなる。そしてその褒賞は何か。神仏の加護である。身心清浄をもって光り輝くところとなる。真実の強さを得る。強さを得てやさしさを知る。それまでの旅である。そして美しい。あたかも唯耐えて生育する木々のようである。雑草など相手にしない。生命力とはそれである。人間において精神がある。精神も同じである。星霜に耐えて光り輝く精神がある。輝いて初めて黄泉より見える精神となる。黄泉も喜ぶ。黄泉が守護する。そうした世界がある。日月照らす。涼風吹く。だれがそれを成就したか。祖先に恥じない自分であるか。本来の価値はある。見失っているだけである。なぜ見失ったのか。その詮索はもう良い。本来の価値は見つかった。見つかったのならどうするのか。各々の問題である。 私における内面での戦いは終わった。今その勝利の実体を確かめつつある。やがて私もふつうの幸せに戻る。長い戦いであった。ここまで青春であった。今となってはそれも使命であった。私は戦い抜いた。そして勝利した。思えば孤独な戦いであった。孤軍奮闘であるかのように思えた。しかし何時も見守られていた。祖先によってである。祖先の夢があった。それが子孫に託されている。その夢を果たすための子孫が選ばれる。力も付与される。その力とは今何か。知性である。もはや勝敗は決した。男と女の戦いも決した。新しいグランドデザインが形成された。不比等以来である。古来日本の価値が復権する。もはや誰も手出しできない。祖先神仏の守護するところである。宇宙自然が事実として証明している。草薙の剣が振るわれたのである。やがて時代は推移する。21世紀である。その約束が果たされる。何時までも腐敗ではない。台風一過。腐敗の後に素晴らしい幸せの大地が広がっている。知性の大地である。世は正される。人類の英知が正す。人間の良識が正す。しばらくできなかったのは自信がなかったからである。その自信も開花した。信じるとはこれである。故に宗教の自由も憲法の保障するところであった。この時のためにであった。あらゆるプログラムが成就した。二千年来の物語の謎は解かれた。これより新しいストーリーの始まりである。すでに始まっている。良い時代である。未来は明るい。開発するべきは自己である。開発するべきは意思力である。自己は感性を磨く。それが羅針盤となる。この世のあらゆる事が気に入らないとしたら、気に入るこの世を作るしかない。この世に合わせてことごとく失敗したとするなら間違っているのはこの世である。真実真理はある。それは神仏との邂逅によって知る。おのれを知る旅、それが学問である。そのために代々遺されたものがある。すなわちクラシックである。人類の英知の源泉はどこにあるか。仏陀、キリスト、ソクラテス、孔子への旅は果たした。この旅を果たすにはそれだけの能力が必要であった。この世でこの旅を目指したものがいるか。そして成就したものがいるか。いたとしてもそう多くはない。開発するべきは自己である。これなくしていくら勇気を説いても不毛である。現代社会に追従迎合する必要はない。愚かであるが故につけ上がるものなどどうでもいい。もはや相手にすることはない。勝手に地獄で浮沈するが良い。荒野=空閑において十分に生きることができる。自然が友となるからである。自分で見たものは見たものである。世間の認証など要らぬ。マイ・ウェイ。自分の道は自分が開く。自分を救うのは自分自身である。世間を超える。しかし世間で生きる。この人生、負けるわけにはゆかぬ。わからぬものを相手にしても詮無い。わからぬものたちも何時かは至る。至ったものたちの世界がある。今合流する。日本浮上である。

●林羅山の座右の銘: 風は来る楊柳の辺。月は至る梧桐の上。
●天地の大順を以て提封と為す。傲然として持せず。洪荒の至化を以て爵賞と為す。(酒中十詠序)

2006年06月05日

Wonderful World

世界がこんなに素晴らしいなんて知らなかった。生まれた時からそうだったのかも知れない。ただ気づかない自分がゐるだけだった。周囲のものは知っていたのだろうか。あるいは感じていたのだろうか。一番疑ったのは自分だった。しかしその旅も終わった。至り着いたのかも知れぬ。この世の至宝はこれだったとの実感がある。歩々清風。日月照らす。真実の縁を待つのみか。時は待つべきものである。古鏡。この世は誰ぞ鏡なる。詩は詩人をもって呈するべし。剣は剣客をもって呈するべし。この世の謎はすべて解かれしも世間え知らず時は流るる。しかれども過去より因縁今果たされむ。真実はかくも秘密に護持されてしかも真実。疑い晴れて日月後を追う。風の吹く。この人生しかと証明しえたり。もはや真実。天下無敵也。明明白。過去からの教えはすべて正しかりしを、世間解釈、悉く間違うか。世間虚仮。唯仏是真。仏、仏とのみ究了したまふ。我を慰さむる日月清風あるのみか。鶴の一声。時は代わりたり。生まれた使命は果たした。即ち人格形成である。まぁまぁの出来である。これくらいで勘弁してほしい。国造人。受領。創世記。地震雷火事親父。私の仕事は終わった。後は任せたよ。父は昭和二年に生まれた。名は昭亮(あきのり)。そして平成元年五月二十二日に没した。父の時代は父の時代であった。私の時代は私の時代である。そのグランドデザインは決した。教育の成果である。代々のことである。今主権は在民である。しかし言い置く。刃向かう事なかれ。容赦しない。

ブレ−ク

われに心の悦びと
心のすこやかさあり
われの愛する妻ありて、われを愛す
わが身体 これすべて実なり

おのれを愛するほどに他を愛し
他をあがむるものはなく
おのれほど偉大なるものを
知ることあたわず

「石頭は是れ真金鋪、江西は是れ雑貨鋪。せきとうはこれしんきんぽ、こうぜいはこれざっかほ。<原文>_<解釈>六祖慧能(えのう)の下から二つに分かれた南宗禅は、青原(せいげん)の門下の石頭希遷(せきとうきせん)の禅こそ純金を商う店であって、南岳(なんがく)の門下の江西で活躍した馬祖道一(ばそどういつ)の禅は雑貨屋さんにすぎない。<出典>中国、唐、道吾円智(どうごえんち)(769― 835)の言葉。『祖堂集(そどうしゅう)』巻四。 _出典解説<解説> 青原系の雪峰(せっぽう)教団の流派が主張する『祖堂集』にみえる語で、青原系に属する道吾円智が雲巌曇晟(うんがんどんじょう)に宛てた手紙の中に述べた南岳―馬祖―百丈(ひゃくじょう)の禅に対する悪口である。『祖堂集』によれば、道吾と雲巌は肉親の兄弟であったと伝えている。兄の道吾は家督を継ぎ、弟の雲巌は出家して、別々の生き方をするのである。道吾が四十六歳になったときに、偶然、兄弟は再会するのである。雲巌は百丈懐海(えかい)の下で二十年近く修行して、百丈の侍者をつとめているが、いまだ悟りを開いていない。出会った兄弟は、家族のことを語り合い、弟は母の死を知る。そして、兄も出家の希望を述べるのである。弟は百丈懐海に相談し、師伯の百丈涅槃(ねはん)の下で兄の出家を許してもらい、兄弟が修行を続けるのである。兄は百丈での修行に見切りをつけて、江西省より湖南省の薬山惟儼(やくさんいげん)のところへ修行の場所を移す。その薬山の下で、後から出家した兄は大悟する。弟の雲巌はあいかわらずである。なんとか弟を悟らせたいと思った兄は、弟に修行の場所を変えて薬山の下へ来るように勧める手紙を書くのである。その手紙の文中の一句が、ここにとり上げた言葉である。手紙をもらった雲巌は、百丈懐海のはからいで、薬山を訪ね、薬山の指導の下に大成し、薬山の法を嗣(つ)ぐことになるのである。 ゆえに、道吾の批判の語は直接的ではなくて、雲巌が指導を受けている百丈懐海の師である江西馬祖道一を、自分が指導を受けた薬山惟儼の師である石頭希遷(せきとうきせん)の名をとり上げて百丈を批判しているのである。 批判の内容は何か。それは方便のゆきすぎである。雑貨屋さんの良いところは、何でも要求を充(み)たしてくれる。馬祖は即心是仏を説く。「ほかならぬおまえが仏である」と言うのである。誰もかれも皆仏であるという主張は、現実の肯定であるが、ゆきすぎると仏教の範囲を離れて自然外道(じねんげどう)に流れる。実際に外道の説が流行し、安易な現実肯定に走る。修行など必要ないし、ごろごろと寝ころんでいても、仏であると勘違いするものがたくさん生まれる。薬山の教団は修行の必要性を説く。修行者に厳しく坐禅を勧める。その坐禅は仏行としての不為の坐禅であり、非思量の坐禅である。育つ弟子は少ないが、少数精鋭の誇りがある。その誇りが、純金を商う店という自負となり、外道ではなくて仏教を学ぶ集団であるという意識となるのである。 やがて、大集団を形成した南岳系に仰山慧寂(ぎょうざんえじゃく)が出て、同じこの言葉をとり上げて、意味を逆転させる。ひらき直りの論理である。求めに応ずることこそ真の宗教である、と。雑貨屋は、ねずみの糞だって売っている、と。この説は無限に妥協を生む原因にもなるが、修行者の要求にいかに応えるかとの緊張関係を見失ってはなるまい。(石井修道) 」(東京書籍刊、奈良康明編著『仏教名言辞典』より)

2006年06月04日

若者達の時代〜感性の目覚め〜

世の中の空気が代わったのを実感している。今この空気を感じない方々はとても残念である。確かな手応えである。所詮わかる方々とわからない方々との二極化であった。今それが最も深いところで果たされた。誰もが望んでいたジグソー・パズルの最後の一枚が見つかった。流れを塞いでいた岩が粉砕された。真実の自由が流れ始めた。喜びの歌があちらこちらで聞こえる。これで良いんだと思う。本当の自由への旅が今始まった。新大陸へ向けて。真実の庶民が解放された。思う存分実行して良い。それでいい。それがいい。やっと好い時代が来た。時は待つべきものである。信じた道は諦めないことである。皆今の自分に自信を得た。それで良いことを知った。もう大丈夫である。火が点いたね。何も恐れることはない。信じた自分をアクセル全開だ。休息はその時々にある。この人生を燃え尽きることだ。この世に未練あるいは悔いを残さないことだ。何をしても信じた道であるなら構いはしない。その時々に為すべきことを為す。それだけのことである。やがてわかる時が来る。流れに乗ろう。流水算だ。解き方は様々自分の解き方を発見せよ。それがオリジナルとなる。必ずオリジナルがある。それを発見したものが勝ちである。自分の花を咲かせる。自分の花しか咲かせることはできない。まさに世界に一つの花だ。自分の花をみつけよう。生きてゆける。迷うことはない。悩むこともない。先ず実行だよ。実行することで道は開ける。必ず開ける。導いて貰える。教えて貰える。自然からね。自然は勇気を持って飛び込むものに寛大である。必ず掬う。この世の秘密である。心のままに生きる。間違いは間違いで良い。正せばよい。それがこの世での生き方である。自信を持つことが勇気の条件である。勇気の前に自信がある。自信は幾度かの失敗の後にやってくる。失敗を恐れないことだ。だれもが通る道である。自分で経験したものしか自分のものにはならない。間違いであるかどうかもわからない。わからないまま右往左往するのは止めよう。躊躇があるならしばらく待て。そしてよく考える。必ず答えは見つかる。正しいと信じたなら飛び込め。そこから始まる。しばらく虐げられた若者達の時代の到来である。その間十分に観察し学習したよね。好きなことをすれば良い。十分に時は満ちている。あらゆる基準が書き換えられる。これからである。内実のないものたちは淘汰される。未来への種にならないからである。悪は滅びる。宇宙自然の掟である。だから自分の心に恥じるところがないならば信じて良い。仮に間違っていても良い。若気の至りで済む。若い裡に失敗しておくことだ。そして自分を信じ切れた時あらゆる秘密が開示される。やがて経験の全てが意味を持つ日が来る。この世に生まれた意味を知る。そして喜びが満ちる。そこからが本当の人生である。疑う事なかれ。今の自分で十分である。実践実験実証済みの21世紀幸福論である。自分を救うのは自分である。自分を解放するのは自分である。羅針盤は自分である。自分の感性である。大自然が戻ってきた。大きく息をして良い時が帰って来た。ネックスト・ジェネレーションが開けた。未来は明るい。生きていて好かった。自分のままで。cf” 若者達へ” (2006/06/03 21:04 H-FMを聞きながら)ところで導きがある。人為的にもあるし自然現象としてもある。祖先の導きもある。これらの導きを見失わないことだ。確かな道標である。そして必ず道は開ける。しかし条件がある。インターネットは生きている。隠れて悪を為していないか。すべて見られている。このあたりがわかると地上ヘブンの住人となれる。そして思い上がった勘違いの方は確かにいる。かれらは相手にしないことだ。貧乏神である。そうした方と付き合いがあるのも自己責任である。彼らには何を言ってもだめだ。何をしても奪われるだけだ。そうした方々に支配されないように。むしろ主体的に対処するのは良い。彼らをも味方に付けることが出来るならそれだけの価値はある。しかし手強い。これに対して良い関係はある。それも自分次第だ。他者を期待してはならない。他者も自分のことで精一杯だ。愛も徳も高いところから低いところへ流れる。自分から流せばいい。やがて自分より高いところから流れてくる。何事も誰かの縁が必要である。良縁を結びたいものである。悪縁は切った方がよい。悪縁は悪縁である。悪の結果しか生じない。このあたりが要領である。世に言う努力を否定した要領とは異なる。努力は必要である。向上のための要件である。魂も日々の思念と行為によって向上する。存在の主体は魂である。この人生は魂の遍歴の一部である。完成へ向けて旅をしている。因って今の自分に劣等意識は必要ない。今の自分より始める。皆通る道である。自己卑下しないこと。既に通った方々はあたたかく見守る。あれこれ言うのは自分より下位の魂と思って良い。これがやさしさの秘密である。魂にも階梯がある。しかし今の魂の階梯から始めるしかない。それで十分だ。やさしい魂は存在している。全てをゆるすことが出来るだけの魂がある。それで良いのである。ここから始める。ここを認めることで自信が出来る。あたたかく見守ってくれている。勇気を持って進むことを始めることが出来る。善と悪ははっきりしている。その区別が出来るようになること。それは感性を磨くことだ。それは自分に素直になることだ。好きなことは好き。嫌いなことは嫌い。それがNoと云えることだよ。黄泉も世界もまじめな子孫が好きだ。そして助けたいと思っている。しかし彼らもどうしてよいのかわからないのだ。本意をはかりかねている。故に自己を明確にする。それは自己の感性を確立し好悪をはっきりとさせることだよ。好悪がはっきりとすれば敵と味方がはっきりする。自分の行為と思念が明確となる。自信を得る。勇気が湧く。実行する。この時はじめて黄泉も祖先も助けることが出来る。こうして思いは通じるようになる。その他宇宙自然とどう同調したらよいのかもわかってくる。自分の意思が客観化する。自分の願いがわかる。自分がどうなりたいのかわかる。どう生きたらいいのかわかる。世間に惑わされなくなる。自分がわかれば世界がわかる。世界の願いと祈りがわかる。宇宙自然に受容され祝福された真実の人生が始まる。思いが通る。導かれるようになる。オートマチック大安心の人生を歩み始める。これが解脱涅槃だ。その為には悪を為さないことだ。悪とは何か。自分の感性に反することだよ。あるいは心に恥ずることだよ。世の道徳倫理ではない。世の道徳倫理は往々にして支配のためにある。心に問えば善か悪かわかる。そうした心の旅をする。やがてその旅も終わる。自然が満ちてくる。喜びに満たされる。生きて好かったと思う。本当だよ。真実の大行進が始まった。世界レベルでの出来事である。この大きな流れに乗ろうよ。憂いなんてない。すべて吹っ飛ばして進もうぜ。素敵な世界が見えてきた。日々楽しいよ。良い時代だね。この道、信じて良い。嘘がないこと。それが真実だ。嘘は妄念、地獄の門。嘘があるからこの世が地獄だよ。嘘がなければこの世は天国だ。そしてそこへ泳ぎつく。そこへの船に乗る。そして実力を磨く。実力は自分の持って生まれた力だ。だれにも前世がある。前世の続きをすればいい。前世の修正と完成を目指せばいい。それぞれ持って生まれた人生がある。それを歩むしかないんだ。それぞれ違う。それで良い。そして大切なのはそれぞれの人生はすべて等しく尊いということ。ここに尊厳がある。これでそれぞれを尊重することが出来るね。南無し合えるね。ここから愛が始まる。きっと良い世界とめぐり逢う。人生って楽しいよ。至ればね。至るまでの悲しみは少なからずあるかも知れない。しかし至って素晴らしい世界が約束されているなら耐えることもできるね。生きている。実行だよ。信じた道を歩むことだよ。必ず至れる。必ず。最大の敵は自分だ。自分に負けるなよ。負けるんじゃぁないぞ。釈迦だってキリストだってソクラテスだって孔子だってみんなこうして到達したんだと思う。こうした本来の価値をしばらく時代の喧噪の中で見失っていただけだよ。見失っていたのだったら思い出せばいいね。未来は明るい。そしてやはり言っておきたいことがある。思想は罰せられない。だから精神においては何に触れても良い(身心清浄を目指す宗教的には問題があるとしても。そして思いはやがて染み出すとしても)。しかしね、実際に結果が事実となった場合は問題がある。セクハラを思えばいいね。そしてね、猥褻罪の要件に「公然と」ということがある。公の電波はね公然だよ。するとね、あなた方は良識があるのかも知れない。しかしね、良識のない方もいる。でね、あおり罪というのもあるのだ。するとね、公の電波でね、公然とそうしたことを放送するのは如何かな。問題あるよ。腐敗を助長しているよ。公には控えるべきだね。暗号のレベルを超えてるよ。夜の放送といえどもね。健全な青少年の育成には養分過多だよ。健全な子供達を犠牲にするのはゆるされない。君たちの満足のために。それはあなた方の自由であって、健全な子供達の自由ではない。少なからず考えるべき問題だね。プロデューサー諸氏及びスタッフの傾向犯かな。確かに日本は古来こうしたことにおおらかな國だ。しかしねそれは庶民レベルでのことだった。すべての日本人がそうであったわけではない。日本には古来恥という文化価値がある。これを解放することが即ち自由と思うのは思い違いである。それは自由の名における暴力である。洗練された自由は別にある。自分たちの解釈がすべてではない。あなた方にはわからない日本本来の価値がある。しばらく見失っている価値がある。一部の解釈を全体の解釈としてもらっては困る。所詮自分より上位の概念はわからない。精神の格差はある。精神の格差は学問と努力による差である。魂として精錬された状態が精神である。それでどうにもわからぬ精神に対しては斬り捨てごめんもあった。世界が代わろうとしているのに時代錯誤も甚だしいね。貪瞋痴の罪悪の温床を積極的に作っている。私はそう思う。それとも健全ということに価値を認めないのかね。それほどまでに腐敗をどこまでも繁殖するのかね。あなた方のコピーはこれ以上要らない。あなた方は本当にそれで良いと心の中で思っているのかね。自然の淘汰。怖いよ。君たちの思いだけが世界の思いではない。世界は軽薄を嫌悪する。嫌煙権以上にである。人間のどうしようもない真実を追究する芸術であるならゆるされることもある。しかし芸術は精神を伴う。あなた方の作品にギリシアの像と同じだけの芸術性があると思っているのか。あなた方の精神の階梯が法律上当然に保護に値しているとでも思っているのか。あまりにも身勝手ではないか。相手にしなければよいか。淘汰は自然に任す。自然の流れは変わっている。私は学生の頃新宿音楽祭でサザンを見た。山口百恵もジュリーもいた。その頃にはまだ何も見えていなかった。感性はまだ開発されていなかった。今は違う。世の腐敗とその可能性、断じて通すわけにはいかない。それほどまでに世は腐敗した。愚かな野蛮と暴力と詐欺を制御できなくなった。主たる理由は新たに自由を得たものたちが本来の価値を無視してはびこったことにある。それ故神の見えざる手あるいは人間としての良識が作用しなくなっている。そうであるならば社会に対していわば外科的手術も必要となる。この意味わかるだろうか。方向性としてすべての庶民が解放されることは良いことである。一部の特権階級のみが自由を享受する時代は去った。しかし本来の自由を知らない方々の自由の横暴がある。気づくべきはここである。自由にも階梯がある。時は流れた。そして今修正しようとしている。このままでは日本が滅びかねないからである。ローマが滅びたように。真実の価値は厳然としてある。今それを呼び起こす。代々の仕事である。すなわち黄泉の精神秩序及び時代の横暴に押し流されて片隅に追いやられた本来の洗練された自由の復権である。敵は本能寺にあり。すなわち最大の敵は自分の内面に棲んでいる。これに勝利して初めて本来の自由を得る。本能に支配されている限り人間として本来の自由はない。そして職業に貴賤はない。どんな仕事も尊い。ラスコリーニコフを救ったのはソーニャだった。ソーニャは娼婦だった。ブッダに乳粥を与えたのは貧しい村の少女だった。『死んだ男』を介抱したのも純真な娘だった。心のありようである。心の向いている方向性である。それに従って目が輝く。顔も輝く。黄金仏である。自由を得たなら何をしても良い。あふれる情念をエネルギーに仕事するが良い。クラシック音楽のように自由奔放に。世界は既に一つの方向性を得ている。その流れに棹させば流される。橋は流れて川は流れず(禅語)。人間の計らいは自然の前にあまりに無力である。自然と連動する魂・精神の階梯がある。至るべき究極の目標である。人生は回廊であるのかも知れない。しかし魂の遍歴は階梯である。愚かでは至れない。愚かを助長してはならない。させてはならない。本来の種を護るためにである。是諸法華経一切種智慧。(辛島美登里さんそしてNHK-AMでクラシックピアノ演奏を聞きながら 2006/06/04 8:43am)

2006年06月03日

『呉の町』

「呉にはもう随分長い間、行かない。この前に行つたのがいつだったか、はつきりしない位で、その印象だけが頭に残つてゐる。一體に東海道沿線の町といふのは東京から下關に至るまで、どこも同じといふ感じがするのは、汽車で移動する人間の數が多すぎるからかも知れない。いつか廣島の大きな喫茶店にゐて、二日酔ひのせゐもあつたのだらうが、窓越しに見た町の風景が東京の銀座と少しも變らないので自分がどこにゐるのか解らなくなつたことがあつて、その東京の銀座も現在では、昔の銀座ではなくて東京銀座とでも呼んだ方がよささうな個性がない場所になつてゐる。

しかし呉は呉といふ町の感じがする。東海道線から少しばかり逸れてゐる爲なのか、町の地形なのか、それとも人情がさうなのか、理由はどうにでも付けられるとして、かなめ旅館で朝、目を覺して寝床の中で廣島工場のキリン・ビールを飲む時から、もう自分が呉にゐることが直ぐに感じられた。キリン・ビールの廣島工場のが東京のなどとは比較にならない位、旨いことは確かである。併しそれならば、廣島にゐる氣がしてもよかつた筈なのに、頭に浮かんだのは呉の旅館の朝、飲んでゐるのだといふことだつた。それから起きて飲んだのが千福、千福の味はここで改めて説明するまでもない。 おこぜの味噌汁が素敵だつた。ガラス戸越しに、呉を取り巻いてゐる丘が家で埋まつてゐるのが見えて、その時、やはり呉にゐるのだと思はなかつたのは、それは目を覺してゐた時から承知してゐたからである。例へばロンドンで朝起きると、自分がロンドンにゐるのを感じる。さういふものがない町は、本當を言へば、町といふものではない。

呉の賑やかな通りには、何か寂しいものがある。これも一つの町が町である爲には大事なことで、昔は東京にもそれがあり、それで例へば、山手暮色といふやうな言ひ方にも意味があつた。今、新宿暮色だの、澁谷暮色だのと言つた所で、どれだけの實感あるだらうか。併し呉の大通りを夕方、歩いてゐれば寂しくなることが出来る。この寂しさがパリでパリの詩人達を育てたもの、又、パリ人にパリを愛させるものなので、ボードレールの「パリの憂鬱」いふ詩集の題は、詩人の氣紛れで付けたものではないのである。呉の人と特に聞いてゐる詩人はゐないが、それよりも大事なことに、呉では人間竝に、といふのは、二十世紀の文明人竝にその日その日を暮すことが出来るのを感じる。これは當り前なことだらうか。それでは、さういふ當り前な町が今日では餘りに少ないのである。」

[小澤書店刊、吉田健一著、『定本落日抄』p136-137]

(さてこの文章によって目覚めてゐるということがどういう事か、感じるということがどういう事か、判断するということがどういう事かがわかる。すなわち存在として生きるお手本がここにある。)

羅刹の孤独

かつて友達は言った。感じているのだけれど言葉にならない。それを意見言葉として言ってくれると。学級会でのことだった。いつもそうであった。誰もが知っていることだと思っていた。しかし誰も知らなかったのだった。この孤独わかるだろうか。権力武力金力などとうの昔に克服している。精神の繊細は他に類を見ない。それを野蛮腐敗の中に放置した。世間はやりたい放題の腐敗である。それが戦後の現実である。それでどうなったか。まだわからないと申すか。本気になればどういうことになるか。世間一般はわかってはおらぬ。その中でどのようにして生きろというのか。答えてもらおう。まだ正解はない。あなた方の自分勝手はもはや通さない。存在の前に善も悪もない。事実があるだけである。時は流れた。何時までも待てはしない。年貢の納め時とはこれをいう。まだわからぬか。何時までもそうして誤魔化すか。下手な自分たちの利益のみを囲うか。今存在がどの地位にいるのか知ってのことか。本気にならせるのか。相応の覚悟あってのことか。

羅刹の悲しみ

何とでも言うが良い。あなた方は天下を取ったつもりなのだろうか。そうはいかない。時は代わった。代わったと云うことは今までの価値が通用しなくなる。どうもわかっていない方々が多い。わからせなければならないのだろうか。いい加減にしてほしい。既に各人それぞれ己の為した人生である。それがこれより裁かれる。本当である。すなわちトランプゲームにおける51である。ストップがかかった。あるいはナポレオンである。こちらには切り札しかない。この意味わかっているのであろうか。わからぬとも勝敗は決した。 それぞれ脛に傷もあろう。そういう時代であったのである。純粋に己を信じ生きてきた者たちが今復活する。悪は去るべし。ゆるしはしない。女は男を愚弄するべきではない。戦後自由民主主義は西洋かぶれである。或いは解釈を誤った。或いは流行病である。女は浅薄エゴ自分勝手である。そして弱いが故に嘘をつく。女のエゴが男を惑わす。愚かな男がそれに迎合した。そして天下を支配した。因って世を乱した。結果腐敗した。尤も女性の中にも素晴らしい方はいるけれど、一般論として。この点についてはむしろ現代男子のふがいなさによると言うべきか。しかし断言し置く。全て自由であるかのように思われる。しかし掟は掟である。天のサンクションが厳然としてある。誰も逃れることはできない。唯、身心清浄を以て逃れることができる。知っても知らなくとも事実真実である。何時までも妄念のままさまようが良い。それに見合った来世が待っている。しかし男も女も既に新しい芽が出ている。しばらくまともな者が生きることができない社会となってしまった。もはやどうでもよい。この人生尋常ではない。犠牲にされしものたちの復活である。やはりゆるしはしない。これ以上腐敗に負けるわけにはゆかぬ。腐敗は表舞台より去るべし。その根は抜かれるべし。あなた方の時代は終わった。黄泉よりの相応の沙汰待つべし。故なく己の分際をもえ知らず何を勝手なことを言っているのか。わからぬならわかせられる。天地の定めである。恐竜は何故滅んだのか。世間身勝手ももはやこれまでである。目覚めてしまった黄泉は新たな決定を為すであろう。ゆるそうと思った黄泉もどうにもならない世の現実を見た。ゆるそうと思った自分を恥じた。それほどまでに腐敗はその根が深い。どこまでのさばるか知れぬ。腐敗のどうにもならない性向に気づいたのである。因って沙汰あるべし。おぉ羅刹よ。おまえの悲しみはどれほど深いのであろう。しかし切れないでくれ。後生だからね。所詮この世は仏の掌の上でのことである。人間の計らいの及ぶところではない。そして仏とは裏を返せば羅刹である。その恐ろしさを知らぬ。知らぬまま身勝手する。そしてその運命や如何。黄泉の心は決した。所詮黄泉も運命通りである。何時かは決せざるを得なかった。その決定とは何か。既に遙か昔に葬られていた。今更である。これ以上腐敗を野放しにはしない。命などとうの昔に棄てている。仏とは何か。宇宙生命自然と連動する魂である。その魂が決するとどうなるか。黄泉が動く。今までとこれからは何故違うのか。これまでは目覚めるべき魂が目覚めていなかった。今目覚めている。それはどういう意味か。知る人ぞ知る。一つの決定が下された。腐敗は根絶やしにする。 基準は何か。ある一個の存在の人生である。救いは何か。輝く存在が存在することである。世に身心清浄はある。それは少なくとも三十年悪を為さぬことにより成就する。成就すれば自由である。黄泉が守護する。黄泉が動く。黄泉も待っていた。黄泉の育みし存在である。善も悪もない。存在があるのみである。この意味わかるか。自覚した存在が決するとき全てが決せられる。事実が証明する。歴史はその象徴としての記録である。秘史は別にある。手出し無用。存在一個で十分である。時代に終わりと始めがある。一つの時代が終わるとき一つの時代が切り開かれる。存在が存続するためにである。そのスケールの大小はある。恐竜からほ乳類へは最大級であった。植物から動物へもそうであった。今それに匹敵することが起きる。今知らしめん。疑わぬ者は幸いである。即ち地中海から世界へそして地球へ。日本史から世界史へそして地球史へ。戯言ではない。21世紀の約束である。刃向かわば刃向かうが良い。相手にならぬ。我が道を行く。自由は自由が切り開く。付き従わぬは淘汰あるのみと知るべし。生命魂の旅である。世迷いごとも試練であった。しかし人生は血ぬれのものではなくてと書きつづっていたのが吉田健一氏だった。そして日本人はかつてやさしさにむかって咲く花だったと書いていたのは辻邦生氏だった。さらに吉田健一氏は自分の住む空間は自分で作るしかないと書いてあった。昔からそうなのだろう。いつもそうなのだろう。やがて至るべき世界があるのであろう。だからその意味で勇気も必要だ。何も恐れることはない。すでに精神の自由は保障されている。同じ事を表現してもそれが文脈において芸術として必要であるなら合法でありもっぱら一つの傾向を示すだけであるなら違法となる世界である。因って自分の精神を信じるしかないではないか。古来の繊細がひとつの文化であることを証明するしかない。野蛮は常にありそれは相手にしなくて良い。嫌ならラジオも聞かぬが良い。テレビも見なくて良い。ただ憂えるしかない。だからこそキリストも磔に甘んじたではないか。ソクラテスも毒杯を仰いだ。そうした過去を持つ人類である。今も同じである。釈迦においては自分の國を滅ぼされた。孔子は夢を叶えることはできなかった。そして思う。人間というのはどうしようもないのだと。このどうしようもない人間を救うことはできないと。しかし仏は言う。一切大衆を救うと。それに決めたのだと。信じることは容易い。しかし現実に耐えることの何と困難であることか。チカラを示せば隠れて姿を見せない。ただ存在していると何処までも搾取する。裏切る。それが人間である。如何せん。滅ぼすか。さもあらず。ここまで辿り着いたのだ。誰もが救われるときが来る。必ず来る。耐えるしかない。大和の主砲は撃ってはならぬ。存在は存在する。黄泉は存在する。犠牲となった魂たちはその存在を認められることで成仏する。何時までも愚かであればそれなりの天罰である。無知とは何か。この精神の世界を知らないことである。洞窟の中に目のない魚が棲んでいる。人間も精神の世界においては同じである。眼あるものとは仏の異称である。目覚めよ。時が来た。目覚めた存在はすでにゐる。輝く方々である。しかしこよなくやさしい。犠牲となる。今までは。これからは違う。守護する魂が目覚めた。味方には万軍の主もつけた。宇宙自然が証明している。それでも自分勝手するか。己の罪を認めぬか。わからせられたいのか。時が無駄に流れたわけではない。時は来たのである。祖師西来意である。キリストも壮年時代は空白である。何処で何をしていたのか記録はない。おそらくふつうの日常であったであろう。ある日目覚めた。キリストとなった。そうしたものである。そろそろ観念していただきたい。自分を救うのは自分である。心に恥じないか。恥じるならどうするのがよいのか。各々自分の魂に問うが良い。自ずから答えは出る。それでもまだ我が儘勝手するか。畏れを知らぬと申すか。いつまでも真実は語られはしない。やがて終息する。そして未来が約束される。すなわち救う魂と救われる魂とに分かれる。祝福はどちらにあるか。当然前者である。人類として歴史が流れた。多くの学習があった。同じ轍は踏まない。それが知性である。やがて事実が証明する。こころある方々は立ち上がるべし。時である。もはやどうにもならぬ。どうにもならぬものが目覚めている。仏法は克つ。王法は設ける。宇宙自然の約束である。黄泉における掟である。あなた方の思い上がり勘違いが正される。今、時である。時は天、天命である。ここで腐敗を処理する。未来へ向けて浄化する。一切腐敗を未来へ通すわけにはゆかぬ。未来のためにである。子孫のためにである。すでにその芽は出ている。幸いは咲いている。信じるのか信じないのか。思うことはやがて染み出す。黄泉が助力する。もはやどうしようもない。目覚めるべきが目覚めた。淘汰する。あなた方はあまりにも本来の価値を無視しすぎた。もはや遅い。宿命である。世を正す。時を軌道修正する頃である。黄泉の意思である。全軍出動。意は決せられた。トラトラトラトラトラ。ハニホヘイロハ。 レミファ空使徒。CDEFAH。長調と短調。明と暗。陽と陰。日月(knight knows it now)。天下。人。TWTXT。御名御璽。

2006年06月02日

ハングリーであること

ハングリーであることは飢えてお腹をすかせていることではない。食はたりていてハングリーであるということがある。すなわち常にお腹に力が入っている。チーターが何故美しいか。それはその腹線美にある。あのくびれようは何とも云えない。精悍である。それは強いことの条件である。歌を歌うこつでもある。エルビスにはそれがある(Love me tender は昭和31年のヒットである。 Who is the ダーリン?)。それでメロディにおいて高度周波数が出ている。リズムも二拍子三拍子四拍子がリズムではない。例えば6/8拍子は三拍子である。ウィンナワルツも単なる三拍子ではない。さらに複雑なリズムがある。アフリカの変拍子がそれである。五拍子もある。八拍子もある。それを単純拍子と思っているのが世間である。さてお腹がくびれているか。女性も憧れる。故のダイエットである。女性は強い男性に憧れる。その強さとは暴力・野蛮ではない。強いが制御されたやさしさである。男は容貌ではない。追求するべき所である。女性は無意識に知っている。あるいは感じる。子孫としての未来へつながる条件であるからだ。しかし人間として肉体だけでは所詮だめだ。どうしても知性が必要である。この知性、代々の所産である。因って努力精進である。未来のためにである。過去の悪い因縁を今生で清算する。その為に生まれてきている。そして善い因縁だけを未来に流す。我々のこの世における使命である。我が儘自分勝手による腐敗がゆるされぬ所以である。テレビ界諸君及び経済界諸氏、云っている意味がわかるであろうか。さて産むというと世間では自分の子供を産むことしか考えない。だから開高健にしてもそのテーマは知れている。お祭りというとそれitになる。それが愛 make love だと思っている。しかし産神が産むのは天地である。因ってたわけ下劣ひょっとこに用はない。腐敗の意味、わかってきただろうか。要猛反省!結局誰と縁があるかが大切である。誰に教えてもらったのか。誰に見限られるのか。究極の誰は誰であるのか。宇宙生命自然解明の鍵である。汝自身を知れ。知った爾は誰か。畏れを知らぬもほどがある。しかし今回の爾は自己犠牲の誰。こよなくやさしいようだ。しかしこの爾、切れる。切れたら怖いよ。仏の顔も三度と決まっている。堪忍袋の緒も切れる。世間一般無知も甚だしい。この爾、真実を無視したる世の我が儘勝手気まま腐敗にはらわたは煮えくりかえっている。何時までもわからぬと申すか。わかりたいのか。羅刹よ。もういいではないか。それほどまでにヨハネの黙示録を見たいのか。もういいではないか。ここで問題にしているのは生まれによる差別ではない。どこまでも心の問題である。健全な精神と善良な庶民を食い物にしている輩に対してである。あるいは腐敗を思念或いは行為及び増長或いは助長及び傍観する者に対してである。法華経に「これをもって貿易(むやく)するべし」とある。何を持てといっているのか。すでにフィールドは世界である。国家日本として戦うべきである。戦いの形もシフトしている。すなわち経済あるいはスポーツ。日本伝統文化及び国土自然が通奏低音をなしている。負けはしない。愚かさが淘汰される。愚かさとは何か。何に対する愚かさか。何を知らないことか。勉強ができないことではない。勉強ができなくても妙好人はいる。身心清浄。本来の目的を忘れていないか。制度も教育もそれを無視していないか。あまりにも愚かさに迎合していないか。あるいは傍観していないか。明日は我が身である。何を以て真実とするか。真実は真実である。都会の空気は自由にする。確かに大学の自治が始まった頃人類の夢は都会の空気であった。しかしその後どうなったか。都会の中で精神は自然を見失った。すなわち神々を棄てた。この反逆、ゆるされるべくもない。主権者への反逆であったからである。やがて知らしめられる。その時には遅い。どうにもならぬ。早くにノアの箱船に乗ることだ。自然に帰ることだ。五欲を断ぜずして救いのある時を迎えている。本当の幸せがある。手がさしのべられている。一夫一婦制も人類の見つけた幸せの条件である。何をしているのか都会人。幸せの条件は夫婦の相性である。しかし往々にして過去の敵と結婚することになっている。過去の敵を取るためである。それが因縁である。今世でそれを克服する。この世の使命のひとつである。因って夫婦は愛の学校である。それを放棄してどんな未来があるというのか。あまりにも人生を安易に捉えていないか。大人の社会は実弾飛び交う戦場である。愚かでは倒される。何をしているのか。何を考えているのか。自由をはき違えていないか。我が儘勝手があまりにも横行している。何故それもゆるされているのか。そこを通ってしかたどり着けない世界があるからである。そろそろ気づこうではないか。そして真実の幸福の世界を目指そうではないか。すでに至った方々のいるその世界へ。要点は何か。真実とは何か。日本霊異記である。古来神国日本である。黄泉の國である。見失ったのは古来本来大和の精神である。嵐を呼び嵐をなだめることのできる人間の精神である。身心清浄を以てその精神は成就する。大道無門。関。どこから入っても良い。今自分のいる位置から始めるが良い。 (NHK-AM 「ぼくらの奇跡」を聞きながら)