郷原を散策しました。以前私にとって多くの気づきを与えてくれた場所です。郷原の遠景を山田の里から眺めてその風景がある版画の風景と一致したとき一つの解明がありました。すなわちその風景がある日突然沈下してしまえばそのままその版画の風景であることに気づいた瞬間でした(この版画の裏に一枚の版画が隠されていた。祖父が版画をしていたのは知っていた。しかしその作品は遺されていなかった。この頃に発見した。何故版画を断念したか。祖父の思いは何処にあったのか。あるいは何であったか。そのほとんどに気づいた瞬間であった。祖父の遺影の目は輝いている)。さて、以前にも書いたことがあって、少なからず個人的に反響を感じてはいましたが、あらためてその地を訪問して参りました。世間では靖国神社の英霊の問題で騒がれておりますが、それでは明治維新の英霊はどうだったのか。即ちある神社でかつて見つけた文書です。「新堂平神社 祭神 市杵島姫命 由緒 往古里人神田の地に小祠を営み産土神と祀りて氏神と尊崇せしが永禄三年霜月三日座主良勢厳島より市杵島姫命の分霊を勧請後宮野首氏の祖六兵衛の寄進により此の地に遷座社名を新堂平神社と改め國土安穏五穀豊饒万民豊楽の祀○と里民の崇敬を蒐め今日に及ぶ 境内社 岡野社 祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命 招魂社 祭神 維新後國事に殉じた○英霊」。私を震撼とさせたのは維新後國事に殉じた○英霊が祀ってあることだった。いわば賊軍である。官軍からしてみると磔獄門である。ここに日本史の謎があると直観したのだった。今となってみれば明治維新で散った英霊を慰めることも私の仕事であったのかも知れない。それは果たしたと思っている。私は石外克喜教授ゼミ卒業だけれど、先生の十八番は正調田原坂だった。彼らの夢が何であったか。彼らの思いは何であったか。彼らは破れて次の時代に譲った。夢を託した。黄泉で見ている。裏切るわけにはいかない。およそ世間の解釈は間違っている。世間のレベルでは理解できない。その後も失われた何か大切なものを求めての旅は続いた。今も続いている。浮かれながらも。思い出の地を巡っているとある看板が目に止まった。『牛石』とある。この牛も仕留めることにした。「牛石(うしいし)とその背景 大きさ 東西 七.一〇米 南北 二.六〇米 高さ 一.八〇米 重さ 約五十五トン 牛石の由来 巨石が牛の坐っている形に似ているので牛石と昔人が名指したといはれている。平安時代の永承年代(後冷泉天皇)に、即ち、源義家の頃、荒谷角四郎貞玄なる者きたりて大積(郷原町大積)にはいり、其の山中にすみか(住家)をかまえた。時代をかさねるにしたがい、角四郎の子孫は分家し、そしてまた、分家と十二戸くらいになったと語り継がれておる。農耕が自給自足できるすがたとなりはじめた永享年間(後花園天皇、南北朝合一の時代)(西暦1429年)大積は熊野七郷に近く、往還道として大積道は此の頃つくられたと伝えられておる。おそらく、黒瀬郷一帯を支配した岩山城主に貢米搬送の必要に迫られて設けられたのであろう。牛石は大積道の守り石として遠く永享年代からその姿を現はしておったのであり、数すくない名指し石の一つとして黒瀬郷一帯に広く知られていた。大積道(現在の大積一号線)は細道であり石ころのいばら道で糧穀を背負った牛馬がやっと通れるくらいの道であったと語られておる。糧を貢ぐ牛馬がおい茂った木立のなかをゆっくりそしてゆっくりゆきき(往復)したものであろう。当時大積道の中程に位置したのがこの牛石であり、かえりには塩や交換物を背負ったであろう牛馬がたどりついて、人も牛も休み、安息したと伝えられておる。さかのぼること約五六〇年の昔から、この牛石は飛郷(どびごう)大積人から安息をあたえてくれる守り石として崇拝されてきた石であり、減損することなく、昔のままの姿で今日にいたっておる。」