至道無難禅師集(公田連太郎編著)より
「しれは迷ひ しらねは迷ふ 法の道 なにかほとけの實なるらん
此歌の心明ならは、大道あらはるへし。
一.佛眼ひらき見るに、日本の衆生は佛にちかし。惡氣少き故なり。惡氣といふは、身を思ふなり。迷ひの根本なり。しかも我身にあらず。それをわがものと思ふは、至りてあさましくかなしき事なり。誰も知る事なれとも、死するなり、病むなり、貧苦をうくるなり、これ我物にあらさるしるしなり。かゝるうき世に生をうけて、苦みおほきをわきまへず、命なかゝらん事を願ふ。大方人を見るに、齢七十に及ぶは稀なり。」
 
知ったというと嘘になり、知らないと言っても嘘だけど、本来のさとりはどこにあるのだろうか。知って行をして、やがて至るところであって、観念ではない。だれがなんと言っても、どうにもならない体験を通して、自信を得る。それが、ほとけの實とも言うべきもので、それは、前世からの約束であり、それに応えた結果と言える。日本人は唯一純粋民族と言えて、大和魂という、清浄な心を持っている。また、自然に恵まれている。この身は、いわば、魂の仮の宿であり、自分のものではない。魂の思いに合致すれば、それは、そのまま、自然に受容され、祝福される。魂=自然(神)
が宇宙とリンクしている。宇宙が守護する。その反射がさとりと言える。それなのに、この世に生まれた意味を思い出すことなく、自分勝手して、そして苦しんでいるというのが、人間である。命のある間に、自分自身を見つけて、いわば、魂と合体して、この上ない幸せを味わうべきものを。そして、日本人が自然環境に恵まれ、単一民族国家であることから、このさとりへ至るのに、近い。また、日本人に与えられていた使命であるとも言える。それを、明治以降、世界と合流して試されたのだが、その使命も忘れかけている。要は、前世からの事があり、神も存在している。この事を日本に託されていたのに、世に汚れることで、日本も腐敗しつつある。しかし、是も亦約束であった。こうして、如来が示される時を迎えた。それは、旧約聖書の予言内容とも一致した時であった。ここに、人類、あるいは、生命体としての不思議がある。目覚めたものが勝ちである。そして、この道は至れば無難である。難行苦行は要らない。こころの清浄と正直が有れば足りる。そして、かぎりなくやさしくなれる。いつもほほえんでいることができる。そうした境地へ至ることができる。(2005/12/14 2:18am NHK深夜便 サラ・ボーンなど聞かせて頂きながら)

2005年12月13日
法華転と転法華
例えば、法華経は経典の王と言われている。また、最も難解な経典と言われている。さて、そこに書いてあることは何であったか。三乗の教えも方便であるという。ただ、最高の乗物である、一乗を説くことが目的ではあるが、段階に至っていない者のために、三乗を説く、と。結局、最高の「さとり」とそこへ至る方法論が説かれている。また、至ってみないと分からないとする。そして、至るためには、前世からの修行があってのことだという。人間は同じ姿をしているが、前世が違うという。それで、是が真実であるが、是を説くことはなかったという。すなわち、「さとり」へ至るまでは、法華転である。「さとり」へ至れば、転法華である。ここを、白隠禅師は「隻手の音」を聞かない間は何をやってもダメだ、聞けば何をやっても真だ、という。道元は、「現成公案」という。「さとり」は自得あるのみで、他の評価を待つものではない。その結果は、神力を得るかどうかである。自然に祝福されて、自然が自分のために動いてくれるかどうかである。因って、最高の「さとり」は、一般には神秘である。そして、大切なことは、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」。誰もが仏の種を持っている。そして、人間として生まれてきたのは、過去において、何らかの仏縁有ってのこと。かつて、必ず、自分も人間に生まれて、仏へ至る修行をしたいと憧れていたからこそ、今生に生まれてきている、と。しかし、人間である以上、本能がある。是に負ける。生まれてきた意味が思い出せない。また、仏になるには、荒行が必要であるかのように思う。それで、その気になっても、気持ちが挫ける。難行苦行が要らないことは、仏陀自身が証明済みである。五欲を断ぜずして、悟りへ至る道が開かれている。その道を探すことだね。それが菩薩業。教菩薩法も開かれている。ところで、政治と宗教がタブー視されている。一般人の一般人たる所以である。単なる卑怯な逃げである。経済は下部構造である。上部構造を考えようとしていない。それで、むしろ問いたい。政治と宗教を無視して、どんな未来と人格を描いているのか。唯、結果、腐敗と堕落への転落とその助長ではないのか。あまりにも身勝手、無責任ではないのか。どのような人間社会にしようとしているのか。動物以下の無秩序か。あなた方の表現の結果としての現実腐敗社会である。この腐敗の責任は社会全体にある。自分だけは加担者でないと思っていないか。この傾向がこのまま続けばどうなるのか。大人の責任である。次世代に、客観的判断基準を整理し、用意しておくべきである。あまりにも安易で愚かな方向へ進みすぎている。答えを待つ。


譬喩品
「疑惑はまったくなくなり、わたくしは、ここに最も勝れた乗物に乗ることができるようになりました。仏たちの声は驚嘆するほどに美しく、人々の疑念と憂いとを払い去ります。その声を聴いて、わたくしの罪障は消え失せ、憂いもすべて無くなりました。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p137]「『仏となり、最高の人間となり、人間や神や・・・から尊敬されて、三十二の吉相を具えた身体をもつ者となったとき、完全に「さとり」の境地に達する』と、仏の声を聴いて、わたくしの誤った考えはすべて除かれました。神々と世間の人々の面前で、最も勝れた「さとり」に到達すると予言されて、わたくしは今日「さとり」に到達しました。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p141]「多くの求法者たちを励まして、この仏の「さとり」を深く微妙な言葉で説くでありましょう。」「汝は長いあいだ余の弟子であった。汝は前世における求法者としての計画により、また求法者の神秘により、この世において余の説法に近づいた。ところが、汝は仏の不可思議な威力により前世における修行と誓願とを忘れ、前世における求法者としての計画も、また求法者の神秘も思い出すことなく『わたしは「さとり」の境地に達した』と思ったのである。そこで、・・・余は汝に前世における修行と誓願を思い出させて智慧を目覚めさせようと欲して、・・・すなわち求法者をいましめ、一切の仏の財産であり、大乗仏教の教えを詳しく説いた最高の経典を、・・・説き明かしたのである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p145]「そのときこの仏国土にいる求法者たちの大部分の者は、宝玉の蓮華の上を歩きまわる者となるであろう。しかも、かれらは初心の未経験者ではなく、長いあいだにわたって善根を培い、幾十万という多くの仏のもとで・・・如来から賞讃され、仏の智慧を得ようと専念し、仏の偉大な神通力の遂行によって生まれ、あらゆる教えの方法に通暁し、温和で、前世の記憶をもっているのだ。・・・かの仏国土には、このような求法者たちが満ちあふれるであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p149]「汝は幾千万の仏を崇め尊び、それによって修行の力を得て、また十種の力を生じて、この上なく勝れた「さとり」に到達するであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p151]「そこには、前世の思い出をもち、種々の修行の完成に長じた多くの求法者がいた。かれらは幾百の仏のもとにて修行を教えられ、その国土に生まれるであろう。そして、かの仏は最後の化身のとき王子の境遇を過ごし、愛欲を捨てて出家し、この上なく勝れた「さとり」に達するであろう。」「汝こそこのような仏となり、他に匹敵する者のない者となるであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p153]「この世においても、またあの世においても、われらが聴き、行ったことが、また仏を満足させたことが、われらの「さとり」の誓願に役立たんことを。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p157]「理解すぐれた人は唯ひとつの喩え話をしても、直ちにその意義をさとる。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p159]「完全に「さとり」をひらいた如来は、すべての恐怖をまぬかれ、人間世界を覆いつつむすべての苦痛や混乱や害悪や苦悩や不快や無知などから、完全に、しかも如何なる場合にも、解放されているのだ。如来は智慧と威力と自信と勝れた特質と仏の教えを賦与されており、神通力によって非常に威力のある世間の父であり、素晴らしく智慧を働かせて巧妙な手段を用いることでは奥義を極めており、非常に憐れみ深く、世間の幸福を念じて倦むことのない心の持主であり、世間に憐れみを垂れる者である。彼は、生・老・病・死の苦しみと悲しみのために起こる苦悩とか不安とか混乱とか無知とかの真黒な覆いにつつまれた人間たちを、貪欲とか憎悪とか愚痴蒙昧から解放するために、そしてこの上ない「さとり」の境地に達するように励ますために、苦悩とか不安の火焔のために燃えさかり、屋根や覆いの朽ちはてた家さながらの三界に姿を現わすのである。[岩波文庫 『法華経 (上)』 p171]「ところが、人間たちはまこと快楽のために、また愛欲の因縁のために、種々の苦悩に遭遇しているのである。かれらは、現世においては切望しているもののために、また来世おいては獲得しようとしているもののために、地獄や畜生の胎内やヤマの世界に生まれかわって、種々の苦悩に遭うであろう。・・・そして、かの大きな苦悩の集積に圧倒されながらも、苦悩に対して心を集中するべきであるという考えを起こすことはないのである。」「『余は実にこれら人間たちの父である。余はこれら人間たちを、このように大きな苦悩の集積から救出しなければならない。そして、これらの人間たちが遊び戯れ娯しめるように、かれらに測ることも考えることもできないほどの仏の智慧という幸いを与えなければならぬ。』」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p173]「『もし余が、智慧の力を有すると考えたり、また神通力を有すると考えたりして、手段を用いないで、これらの人間たちに如来の智慧の力と自信とを教えたとしても、これらの人間たちはこれらの教えによって苦悩から脱出することはないであろう。・・・屋根や覆いの朽ちはてた家さながらの三界から逃れ出さないままで、かれらは、どうして仏の智慧をさとることがありえよう。』」「完全に「さとり」に到達した如来は如来の智慧の力と自信とを具えていながらも、如来の智慧の力と自信を用いることなく、巧妙な手段を用いて、屋根や覆いの朽ちはてた燃えさかる家さながらの三界から人間たちを逃れさせるために、・・・」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p175]「三界から逃れ出るために、おまえたちは精を出して努めよ。」「『五種の力を発揮し、七種の修行をし、瞑想して解脱のために心の統一を達成することにより、偉大なる快楽をそれぞれに娯しめ。そして、おまえたちは偉大な幸福の楽しみを賦与された者となるであろう。』」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p177]「一切を知り、みずから存在する仏の智慧を欲して、多くの人々の幸福と安楽を願い、また世間に対する憐れみから、大衆の利益のために、また神々および人間の幸福と安楽のために、すべての人間を完全な「さとり」に導き、如来の智慧の力と自信を理解させようとして、如来の教誡に傾倒するのである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p179]「そして、三界から離脱した人間たちに、如来は瞑想と苦悩よりの解放と心の統一の完成という、尊くて非常に楽しい、かれらが悦ぶ玩具を与えるのだ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p181]「彼は、自分の子どもたちが・・・何も知らない愚か者のように、遊びに夢中になって戯れていることを聴く。彼は子どもらに・・・告げる、『おい坊やたち、物凄い災難だよ。ここには、いろいろなものが棲み、またこの火だ。災難が続いて起こるし、激しいよ。毒蛇や、残酷な心の・・・どもが数多く棲息し、猛獣どもも、犬や狼の群れも、また鷲などが食物を探し求めている。・・・このような輩が棲んでいて、火事が起こらなくても、最高の怖ろしさなんだ。このように、どれもこれも災難であるのに、火がまた四方に燃え上がったのだ。』」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p191]「このように諭されたのにかかわらず、子どもらは、遊びに夢中になり、父の言葉を考えず、また気にもとめない。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p193]「そして、余は三界を解脱して、平静な心を得て、森林にただ独り住む。しかも、この三界は余の財産であり、そこで焼かれる者たちはわが息子である。余こそかれらの保護者であることを知り、余はそこにある禍惡を示した。しかし、かれらはすべて愚かにも愛欲に耽溺していて、余の言葉に耳を傾けなかった。余は巧妙な手段を用いて、かれらに三種の乗物を語る。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p199]「余のみを頼りとする息子(声聞)たちも、また独覚たちも、六種の神通力と三種の学識と偉大な威力をえて、後戻りすることなく、かれらはここに求法者となる。・・・学識ある人よ、唯ひとつの仏の乗物を説く。それを大切に護持して、すべての者は仏となれ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p201]「この宝玉づくりの最も勝れた車は、多くの求法者たちや仏の言葉に耳を傾ける声聞たちが、乗って遊びながら、この世において「さとり」の壇に赴く乗物である。」「幾千万劫にわたって焼き苦しめられている汝らを、余は危険と恐怖の満ち溢れた三界から救ったのだ。そして、その場合に余は「さとり」の境地を語る。・・・この世の人間たちが卑しく唾棄すべき愛欲に耽溺しているとき、またその場所で、常に真実を語る世の指導者は、この世における神聖な真理として、そのとき苦悩を説く。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p203]「愚かな理性の輩が無知で、この世における苦悩の根本を視ないとき、『激しい欲望の生ずることが苦悩の起源である』と、余はかれらに進むべき道を示す。激しい欲望を滅するために、汝らは常に執着してはならぬ。これこそ、余の説く第三の真理「滅諦」である。それによって、人は間違いなく解放されるのだ。この道を実行してこそ、解放があるからである。・・・迷妄から解放されるのだ。しかし、いずれにせよ、かれらは完全に解放されたのではない。『かれらは「さとり」の境地に達していない』と、この指導者はいう。余は何故にその人の解放を語らないのか。彼が、この上なく勝れた「さとり」に到達していないからである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p205]「教えの王者として、人を安楽ならしめるために、この世に生まれるのが、余の望みなのだ。・・・神々と世間の人々の幸福のために、その教えを四方八方に説き示せ。・・・この経典を信奉する人は、かつて前世において如来たちを見、かれらに恭しく仕え、またこのような教えを聴いた人々である。余の語った勝れた言葉を信じる者たちは、余と汝とを見た人であり、また余の教えに従う、すべての僧の群れと、これらすべての求法者たちを見た人である。この経典は愚かな人を迷わすと、神通力によって知り、余はこの経典を説かなかった。ここには実に声聞たちの力は及ばず、また独覚たちも到達しえないからだ。・・・かれら(声聞たち)は余のみを信じて歩み、各自の勝手気儘な智慧は見られない。高慢な輩や自惚れた輩や、また修行しない連中に、汝はそれを語ってはならぬ。愚かな輩は常に愛欲に狂奔し、何も知らず、教えを語られても、それを捨てるであろう。余の巧妙な手段は常にこの世に確立されている仏の指導方法である。それを捨てて、渋面をして乗物を捨て去った人の、この世における悲惨な報いを汝は聴け。余の在世中であれ、あるいは入滅した後であれ、このような経典を捨て去って、あるいは僧たちに苛酷な態度をした人々の受ける報いを汝は聴け。愚かな輩は人間界で死んだのち墜ちて、幾劫かを満了するあいだ、阿鼻地獄に住む者となり、その後さらに幾小劫のあいだ、かれらはそこで堕落を続けるのだ。・・・彼は地上に教えを垂れる王者の仏を決して見ることはなく、仏としての余の指導を捨てて、教えを聴きえないところに住む。・・・このような「さとり」を捨てて、彼は決して心の平静を得ることはない。・・・また、他人にこき使われて、常に貧乏である。・・・個我に関して異端の見解を堅持し、また、彼の憤怒の力は増大する。・・・しかし、この世に賢明で博識があり、記憶力すぐれ、学殖があり、智慧ゆたかで最高の勝れた「さとり」に進む者があれば、汝はかれらにこの最高の真実を説け。幾千万の仏に見え、また数えきれないほどの美点を培い、そして信心の堅い人々がいるならば、汝はかれらにこの最高の真実を説け。勇気があり、常に慈悲の心をもち、この世において長いあいだ慈悲を行ない、そのために生命を捨てる者があれば、かれらのために、その面前でこの経典を説け。お互いの目的を尊重し、愚かな輩と親しまず、また山林などに満足する人々に、汝はこの素晴らしい経典を説け。・・・この大乗の経典を信奉し、しかも他の経典を好むことなく、他経から一詩頌さえも信奉しようとしない人に、汝はこの勝れた経典を説け。・・・最高の勝れた「さとり」に進む人々のために、その面前で、汝はこの経典を語れ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p207-221]凡そ法華経は分かった。しかし、・・・。羅刹は云った。やはり、勘弁ならぬ、と。仏もぬるい、仏如きの勝手も許さぬ、と。奴は何者か。仏をも超えたか。十?士!この度は、AnyThing is new! 既存の概念は一切通らない。人類初めての”法力”の支配の始まりである。自然が動いている。旗頭は「直心」!すべては、大いなる自然に導かれていたと言って良い。撰ばれし者の特権と云うべきか。知らしめんが為の戒めはある。しかし、いつも、その傷は軽微であった。治癒すべきものであったのである。何事も経験を通して、自分のチカラとなる。目に見える名誉だけではない。見えないところにおける試練を如何に克服したか、是が人格形成上の大きな要因となる。しかし、やはり、導かれていた。神=自然の摂理がある。法華経は、一般世間を愚かと規定する。さとりは、前世の結果であるとする。信じるべきは一般大衆である。仏の属性を持つものは、醜いアヒルの子(白鳥)である。世間は、やはり、罪を犯している。何時までも、これまでの愚かさの増殖は許されていない。知性を愚弄した罪は裁かれる。馬鹿騒ぎは終わりである。品格の否定はここまでである。自然の選択が為された。時が満ちた。世界の進路が示された。神=自然の自己証明が示されたのである。それでも、人間が思い上がるのであれば、凡そ、人類も地球にとって、通過点に過ぎない。己の分際を知るとは、小林秀雄も晩年に至って初めて気づいたことだった。やがて、わかる。今生ではないかも知れないとしても。もはや、法華経も古い。乃ち、現在、チカラのある唯一の御経典は『妙法華経』である。そして、世間一般は神を信じていない。これが、明治以降の重罪である。法華経は、世間一般から超越した神の実在を前提にしている。あらゆる愚かさの原因がここにある。世間一般にとって神は迷惑であろう。しかし、真実は真実である。同じ人間でありながら、生まれながらにして、人格の差がある。世間一般はむしろ、人格の向上を目指すべきである。しかるを、自分たちのコピーを増殖することしかしていない。文化が腐るのは当然である。クラシックを粗末にして、自らの存在がある筈もない。その意味では、アメリカもその非難を免れない。共和制の限界が露呈しているのである。しかし、世間一般の理解は得られないであろう。貧しさの真の意味は、無欲である。因って、貧しきものは幸いである。貧しさは人格の否定ではない。むしろ、高潔の故である。現在資本主義がどのようにして始まったか。日本においても、その資本はどこから始まったか。戦後、焼け跡の空き地を奪った者がいる。焼け跡の瓦礫を奪って始めた者もいる。現代腐敗は、その結果である。現体制は今のままで良い。ここから始めるしかない。問題は、根本精神の洗い直しである。利益追求の精神基準の転換である。利己主義である限り、けがれた人間の精神である。結果、不幸となる。さて、何を議論するべきか。これより、愚かでは生存できない。諸結果は出ている。反省の時である。一切、弁解の余地はない。人間レベルの勝手が過ぎた。基準の見直しである。努力することを忘れすぎていた。社会の辺境=荒野から敢えて呈する苦言である。ところで、女は畑、男が種である。日本も進路を誤るか、そこまで、見えなくなっているのか、女系天皇。世も末か。もはや民主主義ではない。衆愚主義のアンケート。終わりが近いか。民=人間はここまでつけあがったか。自然=神の鉄槌があるかも知れないね。自然=神の生存のために。自然摂理=神(命)を冒涜して、その罪を認めず、尚、自らの利益のみ考えている。虫がよすぎはしないか。自然が意思決定すれば、人間など・・・。敗戦の時の枕崎台風の意味を知らぬらしい。人間が掬われる為には条件がある。よく考えるべき時である。地球は愚かな人間のためにあるのではない。さて、社会の腐敗と秩序の悪化、行政各論の職務怠慢の結果だね。分を過ぎた身分に安住していたね。もともと行政能力とその資質はなかったと言うべきか。責任感もね。一度の試験に合格しただけで、権力を付与されていたとでも思っていたのかな。所詮、民主主義→衆愚制化の当然の結果かな。

2005年12月12日
方便品
「余こそ如来の智慧の発揮を鼓舞した者であり、如来の智慧を人々に示した者であり、また、それを理解させ分からせるとともに、それを発揮するに至るまでの道程を人々に理解させた者であるからである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p91]「現在、十方にある、測ることも数えることもできないほどに多くの世界に、完全に「さとり」に到達した如来たちがおり、そこに逗留して居住しているが、かれらは世間を憐れんで、多くの人々の幸福と安楽のために教えを説く。」「さらに基本的な考え方を説明するという巧妙な手段によって、信心について、それぞれに異なった意向を持ち、さまざまな感覚をもつ人々の心の動きを知って、教えを説くのである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p95]「如来は時代の堕落の際に出現するのである。」「この教えを仏たちが悟った次第を、・・・余から聴け。・・・汝の志願するところと修行を知り、またこの世における幾千万の人間の種々さまざまな意向を知り、かれらがかつて積んだ福徳と現在の数々の行為を知って、種々の説明をし根拠を示して、余はこれらの人間をこの教えに到達させよう。」「幾千万の多くの仏のもとにて修行せず、いやしいことを楽しむ無知の輩に、生死の回転(輪廻)に巻き込まれて苦悩にさいなまれる輩に、余は「さとり」の境地を約束しよう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p103]「賢聖は時機を待ち、好機を見て、しかる後に語る。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p105]「仏がどのようにして、どのようなことをさとったにせよ、仏がみずから安住するところに瞑想して解脱を願い、体力と感覚の機能をもつ人々を仏は安住させるのだ。」「余には、吝嗇の心は全くなく、嫉妬もなければ、また欲望も情熱もない。余は一切の惡を剪除している。余は世間をあまねく知るがゆえに仏なのである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p107]「仏として余は「さとり」を世に弘めよう。」「すべての無知な輩は混乱し、必ずや余の勝れた言葉を理解しえないだろう。かれらは前世において修行をせず、愛欲の対象に夢中になって、それに心がとらわれ、渇望のために愚かとなり心が乱れていた。余はかれらがこのようであることを知っている。かれらは愛欲のために悪い運命に陥り、六種の運命にさいなまれながら、福徳の少ないかれらは苦悩にさいなまれて、かれらは死をくり返した。常に「有る」とか「ない」とか、「そのようだ」「そのようでない」とか、種々の邪悪な思想の密林の中にさまよい、六十二種の邪悪な思想を頼りとして、虚偽を堅く守ったままでいる。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p109]「かれらは心がねじれ、高慢で、不実であり、頑固で無知で愚かである。幾千万億の生涯を重ねても、かれらは決して仏の好い声を聴くことはない。」「かれらに手段を語る。人々が苦悩にさいなまれているのを見て、その場合でも平安な境地を約束するのだ。」「そして仏の教えもまたひとつである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p111]「如来は神々もいるこの世間において、人々の意向と心の動きを知り、仏たちの他の種々の手段を用いて、余の勝れた教えを弘めるのだ。かれらから親しく教えを聴き、あるいは教えを聴いた人々は、贈物を贈り、戒行を実践し、忍耐によって、すべての修行を成就した。精進し瞑想に専念して仏に仕え、あるいは理智でもって、この世に存在するものを考える。種々の福徳ある所行をして、その功徳によって、かれらはすべて「さとり」に到達するであろう。」「一本の華を供えても、取り乱した心で供養しても、かれらは順次に幾千万の仏を見るであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p117]「過去に入滅した仏であれ、あるいは現にこの世にいる仏であれ、これらの仏から、そのとき、教えの一部分でも聴く人があれば、それらの人々は「さとり」に到達するであろう。未来にも、考えられぬほどに数多くの、幾千万という仏が出て、その数は測り知られないが、これらの仏たちも世間の最高の庇護者として、この巧妙な手段を世に弘めよう。世間の指導者である仏たちには、巧妙な手段が無限にあるであろう。それを用いて、この世において、かれらは幾千万の人間を汚れのない仏の智慧に導くであろう。かれらの教えを聴いて仏とならない者は、一人としてない。「さとり」を求めて修行して、人々にも修行させたい、これこそ実に如来たちの誓願なのである。[岩波文庫 『法華経 (上)』 p119]「この世において、すべての人間を安楽ならしめるために、かれらはこの最勝の「さとり」を説く。」「余もこの怖ろしい揺れる世界に、人々の堕落の真中に出現した。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p127]「現象で判断して偏見を抱き、うぬぼれている無知な愚か者たちには、いま、信じがたいであろう。しかし、これらの求法者たちは耳を傾けて聴くであろう。」「いつか、どこかに、なんらかの方法で、人間の雄牛(仏)たちのだれかが現れる。無限の眼を持つかれらは、この世に出現して、いつか、このような教えを教示するだろう。このような最勝の教えは、幾千万億劫を経ても、得がたいであろう。最勝の教えを聴いて信ずる者たちも、同様に得がたいであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p129]「それは、人を魅了する姿であり、神もともに住む世界の驚異であろう。余は、それよりも一層驚異すべき教えを語ろう。余の語った教えを聴いて、悦んで一言でも教えの言葉を語るならば、それはすべての仏たちに供養したことになろう。」「かれらはすべて求法者となり、余の弟子である声聞は一人もいない。」「これは汝にとって秘密であれ。そして、余のすべての弟子、これらの傑出した求法者たちも、余のこの秘密を信奉せよ。なぜだか分からないが、五種のけがれの時代には、悪意のある輩や凶悪な輩がいるものだ。愛欲のために盲目となった愚か者たちは、決して「さとり」を心がけることはない。余のこの唯ひとつの乗物が仏によって世に弘められたと聴いても、それを信ぜず、未来において、かれらは経典を捨てて、常軌を逸し、地獄に堕ちてゆくであろう。最上で最も勝れた「さとり」を得ようとする柔和で清浄な人々もいるであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p131]「疑念を捨て、疑惑を去って、仏となれ。そして、それを悦べ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p133]
心の地平〜如来がこの世に出現する唯一の動機〜
「彼の仏国土は平坦で心地よく、瑠璃づくりで宝玉の樹木で飾られ、陥し穴も断崖もなければ溝や汚水溜りもなく、素晴らしく美しく、花が撒かれているであろう。そこでは、人々はあらゆる楽しみが設けられた宮殿楼閣の中に住居を構えるであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p309]これが、21世紀の約束であり、乃ち、新たに開かれていた心の地平であった。これより居住するべきは、宇宙=心の地平であった。二十一世紀の新大陸であり、新世界である。
 
「このように、わたしは聴いた。あるとき、世尊はラージャ=グリハ(王舎城)のグリドゥラ=クータ(霊鷲山)に滞在して、千二百人の僧と一緒にいた。これらの僧はすべて阿羅漢で、汚れもなければ、欲望のわずらいもなく、自己に克ち、心も理智も巧みに迷いを離れており、高貴の家の生まれで、偉大な象であった。かれらは為すべき義務をすべて為し遂げて、重荷を棄てて自己の目的を達成し、この世のきずなを断ち切っていて、完全な自制によって心に迷うことなく、あらゆる心の動きを制御して、六波羅蜜を完成しているばかりでなく、神通の智慧の傑出した偉大な・・・。」。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p9](今、広島大野に王舎城がある。霊鷲山とは世界一の墓場であり、それは、今、原爆を投下された広島だと云われている。)
 
「また、八万の求法者たちも、その座につらなっていた。かれらはすべて、「さとり」を達成しようと修行して後戻りすることなく、この一生だけをこの世で送って二度と再び生死の回転(輪廻)に陥ることなく、またこの上なく完全な「さとり」を達成するための確固たる地盤を獲得しており、四種の自由自在な理解と表現の偉大な能力を賦与されていて、教えの車輪を挫けることなく回しつづけ、幾十万という多くの仏に仕え、これらの仏のもとで善根をつちかい、これらの仏から讃歎された。かれらの肉体と心とは悲しみに包まれており、かれらは如来の智慧にはいることが巧みで、偉大な理智をもち、理智の最高の完成状態(般若波羅蜜)に到達する道を歩んで、幾十万という多くの世界に名声が高く、幾千万億という多くの生命ある者たちの救済者であった。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p13](輪廻とは、地獄(岩石)、餓鬼(植物)、畜生(動物)、阿修羅(戦争状態)、人間、天=神の六道を巡る。天=神と雖も、地獄に堕ちる約束である。これに対して、人間、天=神、声聞(教えを聞いて真実を求めようとしている)、縁学(独学で真実を学ぼうとしている)、菩薩(教えを聞いて、周りが幸せであることで自分も幸せであることを認識し、人と共に修行している)、仏(悟りを得ている)の新六道輪廻がある。此処に於て、人間以上に生まれる約束となる。ところで、人間界は、地獄から仏に至る十の階層からそれぞれ集まっている世界である。つまり、同じ人間でもその人格が異なる所以である。さて、この人間界に於て、行をすることで、旧六道輪廻から新六道輪廻に渡ることができる。彼岸へ至れるのである。人間とはそういう階梯である。ところで、仏とは、五大元素のことであり、それを仏語で、地水火風空と呼ぶ。このそれぞれには、プラスとマイナスがある。例えば、水も、ご飯が炊ける水はプラスであり、洪水はマイナスである。それぞれのマイナスが全てプラスとなり、プラスが十の状態が仏である。それで、仏の守護とは、自然から祝福されている状態である。)
 
「・・・これらの仏国土には、尊き仏たちが住んでいたが、かれらの姿もすべて見えた。これらの尊き仏たちが説く教えも、すべて、余すところなく聞こえた。また、これらの仏国土にいる僧・尼僧・在俗の男女の信者・苦行僧たちで、目的を達成した者も達成しない者も、すべて、その姿が見えた。また、これらの仏国土には、偉大な志をもつ求法者たちが、仏の教えを度々にわたって色々と聴聞したことから熱烈な意向を持つようになった種々の因縁をたよりに、また仏のさまざまな巧妙な手段に導かれて、求法者としての修行(菩薩行)をしていたが、かれらの姿もすべて見えた。また、これらの仏国土には、完全に平安の境地にはいった尊き仏たちの宝玉づくりの遺骨塔があったが、それらもすべて見られた。(以上のことは、すべて、広島大野王舎城で見た。)」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p21]
 
「如来は偉大な教えを聴聞させる会合を開きたいと思い、偉大な教えを人々に聴かせようと願われて、・・・すべての世間の人々が聴きたがらない教法を聞かせようとして、・・・驚嘆すべき奇跡を現し、・・・」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p39](昨年の台風を覚えているだろうか。広島では風速60mを記録した。また、今年の台風14号を覚えているだろうか。少なくとも気象観測者は気づいているはずである。また、広島在住の方々は、奇跡としての穏やかさを経験した方々もいたはずである。もう忘れてしまっているのであろうか。)
 
「さらに、偉大な志をもつ求法者たちには、六波羅蜜を中心として、完全な「さとり」にはじまり、一切を知る者(仏)の智慧に終わる教えを説いた。」「同じ家柄・氏族の、完全に「さとり」に到達した阿羅漢の如来が、相次いで出て、二万名もいた。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p41]「すなわち、求法者をいましめ、すべての仏が受持すべき、非常に大きな最高の経典を、説こうと欲していられると、わたしは思うのである。」「考えることも測り知ることもできないほどの数の劫を経た、昔を思い出す。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p53]「そして、かれらは、平静にして汚れのない、真実の言葉を知って説き明かし、多くの世界において、教えを説く。[岩波文庫 『法華経 (上)』 p57]「そして間もなく世間の指導者(仏)は瞑想から立ち上がり、・・・そのとき話しかけた。・・・『余は教えの指導方法を説き、教えの本質がどのようであるかを語った。』」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p59]「勝利者の王であり、また一切をあまねく見わたし、最高の真実を知るシャーキヤ族の覇王が、そのときわたしが聴いた最高の經説を説こうと欲していることは、確かだ。・・・シャーキヤ族の獅子は、それを正しく用い、教えの本質の特色を語るであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p65]
 
「仏の智慧は深遠で、見きわめがたく、理解しがたい。完全な「さとり」に到達した阿羅漢である如来たちがさとった智慧は、すべての声聞や独覚たちには理解しがたい。それは何故かといえば、かれら如来たちは、幾千万億という多くの仏に親近したからである。かれらは、この上なく完全な「さとり」を達成しようとして、気力を振るい立たせて幾千万億の仏が行った修行にならって修行をし、かれらに遠くまで随行して驚異驚嘆すべき教えを体得し、理解しがたい教えを会得し、理解しがたい教えに通じていたからである。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p67]「如来たちは偉大な巧妙な手段を用いる智慧を示すことでは、最高に熟達しているのである。かれらは、繋縛もなく障害もなく智慧を発揮する力をもち、自信に満ち、普通の人間とは区別される勝れた特徴があり、また、そのような感覚機能の力をもち、「さとり」を達成する素質を具えているだけでなく、瞑想して心を静め、迷いから脱し、精神を統一して身心を平安させることができるという不思議な特質を賦与されているのであって、こうして種々の教えを宣揚するのである。」(誰もが知り、もっている当然のチカラかと思っていた。)「如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできるのだし、如来こそ、あらゆる現象を正に知っているのだ。」「如来こそ、これらの諸現象の明白な目撃者なのだ。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p69]「神々と人間とが住む世間において、偉大なる勇士(仏)は無量である。この世のすべての人々が指導者(仏)たちをすべて知ることはできない。かれらの力、迷いからの脱出、そして、かれら自身がどのようなものか、仏のもつその他の特徴がいかなるものか、だれも知ることはできない。」(人間は平等だと教えられて、それで、・・・。平等即差別を早く教えて欲しかったよ。そうすれば、こんなに苦労しなくてよかったのにね。)「かつて幾千万の仏のもとで、意味深遠でかつ微妙で、見きわめがたく理解しがたい数々の修行を、余は修めたのだ。この修行を考えられないほどの幾千万劫のあいだ行って、「さとり」の壇上において、それがなんであるかを見たのは、余の得た果報である。そして、余はそれを知っており、また他の仏たちも知っている。それが、どのようであり、いかなるものであり、また、その特徴がいかなるものかを。それを示すことはできないし、それを表現する言葉もない。(あるけどない。知る人が知るばかりである。)また、そのようなことができる人は、仏のほかには、この世には誰もいないのだ。かの教えが教え示されるべき人、また教え示された教えを理解しうる人は、信心の意向をもちつづける求法者たちを除いては、他にはない。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p71]「仏の教えは深遠で微妙であり、そのすべては追究しえられす、しかも清浄である。この世の十方において、仏たちが説いたことがいかなるものか、余のみが知る。・・・仏が語ったところを深く信ぜよ。偉大な聖仙である仏は偽りを語ることなく、長いあいだ最高の意義を語る。余が平安の境地に達したことによって鼓舞されて、各自に「さとり」に到達しようと努力しはじめ、連続して起こる苦悩から解放された、これらすべての声聞たちに、余は告げよう。この世においては、余は巧妙な手段を用いて、この勝れた教えを語るのだ。かれこれと心を奪われた者を迷いから解き放つために、余は三種の乗物を示そう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p75]
 
(さて、信を以て入ることを得たりという。是が難しい。何故って、自分が自分を信じるしかない場合があるからである。自分以外はすべて違っていてそれでも自分を信じるには相当の行が要る。また、その質において、相応の行が要る。因って、難しい。しかし、この泥の中にしか、蓮華は咲かない。その苦労を超えたときの喜びを信じるしかない。また、確かに、この喜びは無上である。)
 
「もう、よせ。その訳を説明して、何になろう。それは何故かといえば、神々も世間の人々も恐れおののくであろう。そして、僧たちはうぬぼれの心をおこして、大きな穴に落ち込むであろう。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p83]「・・・その集まりにいた僧や尼僧や男女の信者の中で、うぬぼれの心を起こした五千人の者が座から立ち上がり、・・・これは、うぬぼれのために生じた悪い根性のために、かれらは得ていないものを得たと思い、達成していないものを達成したと思っていたからである。かれらは自尊心を傷つけられたと思って、その集まりから出ていったのであった。」[岩波文庫 『法華経 (上)』 p87]
 
「余は真実を語る者であり、ありのままに語る者であり、確実なことを語る者である。・・・正しい教えは推理することもできず、推理の範囲を超え、如来のみが理解するところである。それは何故かといえば、如来は唯ひとつの目的・唯ひとつの仕事のために、この世に出現するからである。・・・それは如来の智慧を発揮して人々を鼓舞するためであって、そのために如来はこの世に出現するのである。如来の智慧の発揮を人々に示すためであり、またそれを人々に理解させ、分からせるためであり、また如来が智慧を発揮するに至るまでの道程を人々に理解させるために、世尊はこの世に出現するのだ。このことが、・・・如来の唯ひとつの偉大な目的であり、唯ひとつの偉大な仕事であり、如来がこの世に出現する唯一の動機なのである。[岩波文庫 『法華経 (上)』 p91]
 
自由の誕生〜宣言として〜   2005/12/02  (引用) 
さて、自信は本人が納得して至るものである。一度、この妙を得れば、あらゆる一切の言辞に惑わされることはない。一切は正憶念である。過去の自分が知れれば、一切の他者を排除できる。自得自証、それでいい。意に添わなければ、それは縁なきこと。自分は自分で充足している。ここに至らぬ限り迷う。いくら知ったかぶっても、わかったつもりでも、到らねば意味はない。自分が自分と一体となる。この事がわかれば、この世の一切が、自分の反射であると知る。到らねば、所詮自分ではない。これはまた、客観的チカラを根拠としている。そのチカラとは、神力である。神力によって証明されれば、世界が、自分を祝福していた。虚は一切虚であり、相手にすることはない。相手にしなくとも、地球は自転している。およそ、世界に嘘はない。真実は正直を以てその姿を現す。真実を知るとは知って神を見る。神は現実であり、知らねば秘密である。およそ、知らぬ者にはいくら説明しても到底解らない。知ればこれほど簡単明瞭はない。いつも、神は守護してくれている。いつもそばにいる。これほど信頼に足るナビゲーターはいない。助っ人はいない。命など惜しむこともない。神とはそうしたものである。その他、何も要らない。破れかぶれ、すっちゃかめっちゃか、はっちゃかめっちゃかである。是を以て本来の自由とする。是を以て大和魂とする。因って、大和は美しい。ここへ至れば、人生はジェットコースター。上り詰めた高さが自由の度合いを決める。下りはニュートラル。自由無限軌道に乗れ。下って上って亦下る。これより終わりは命の終わり。人生の醍醐味ここにあり。上るは最高峰、須弥山なれ。風は追い風、空を舞う。金銭レベルでは買えぬ(変えぬ)最高の至福がある。自由。(RCC「走れ歌謡曲」を聞きながら 2005/12/2 04:58am)自由とは、思う通りにして法を超えない。要件はただ一つ、嘘をつかない。力強く生き抜く。人生はフィナーレへ向かうクレッシェンド・フォルテ(チェリビダッケ指揮、ブルックナー4番の如く)。上り詰めろ。本来ある力が制御された緊張感あるピアノッシモ思惟精神構造を以て。制御された高速頭脳回転状態がそれであり、21世紀は良い意味での高度緊張状態人格を知るもの達の時代である。彼らの文化が華咲く時を迎えた。それぞれの文化の質が開花する。時代は満ちた。(2005/12/07 09:18am)これまでの敗戦状態に起因していただけの平和の中で、本来の価値を知り得ず、むしろ笑いものにし、貶め、履き違えていた者たちによる偽善文化(彼らの歩んだ道は、事実として、現実に於て、腐敗として現前している、その責任は取って貰う)、すなわち、甘え(責任転嫁)と他人を利用して利益を独占する手法は反省された。詐欺と脅迫は通らない。自由個人主義の時代である。心ある方々の待ちこがれていた実質文化の到来である。(2005/12/07 20:44)ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた真の理由を知るものはいない。アポロ計画が何故実行され、中断されたか、その理由を知り得ないように。また、宇宙ステーションが何を意味しているかを知らないように(スペース・シャトルが初めて地球に帰還したのは何時であったか、昭和56年春である)。それらは化人としてでしかなかった。すべて、ある人(存在)に真実を知らしめんがための故であった。しかし、その頃に、本来の種が蒔かれていた。今、やっと、その華が咲く。そして、実が成る。知らずともである。これが真実である。(RCC 甲斐バンド「英雄」を聞きながら 2005/12/07 21:26 (フッ、辛いぜ・・・))在法華宿王華としてのしかるべき存在が目覚め、自然=宇宙に受容・祝福された大神通力が世に現れたからである。真実のシャトルの帰還である。2001年宇宙の旅。長い旅であった。機体は少し損傷があるが、まだ飛べる状態である。(2005/12/10 4:45am RCC 「走れ歌謡曲」を聴きながら)
(http://www.pc-kure.net/より)

 
2005年12月11日
感謝
確かにチカラを得た。それは、如来の神力とも云うべきチカラであった。そして、その過程は、凡そ地獄だった。地獄というのは、自分の思いと客観とのギャップだった。それは、何時の頃からだったろうか。おそらく、生まれたときからだった。そして、今は、感謝である。それは、諸先生、諸先達に対してである。特に、見えないところでの祝福と応援があった。何度も滑り落ちた。しかし、這い上がり、究めた頂上は、須弥山であるかのようであった。ここに、お礼申し上げる次第である。昭和56年就職は大林組だった(しかし、安住させては貰えなかった、あたかも、大海での遍歴が続いた、運命としての行のようだった、「何か失われた大切なもの」を求めて)。就職活動は大阪だった。また、文化放送には、履歴書の書き方(=自由)を教わった。その後も、見えないところの方々の応援の故だった。RCCからは、祖父の亡くなった頃、その旨を添えた応募で、オージェイズのEPレコードを頂いた。常に道標はあった。振り返れば。ありがとうございました。代々の果たさなければならなかったこと、果たせたようです。
 
さて、これは仮説であるが、飛行機は何故墜ちるか。それは、スタッフ、特に整備の問題である。スタッフが邪悪であれば、たとえば、その周波数が飛行機を墜とす。精神の問題である。正直者に神は宿る。正直者が整備すれば、神々が守護する。機体が喜ぶ。墜ちはしない。また、乗客の中に、たとえば、御寳器を所持する者がいれば、墜ちはしない。信じる信じないではない。事実である。
 
ところで、今、社会は明らかに女文化社会である。戦後、女性にも行為能力が与えられ、参政権も与えられた。女性の解放があった。そして、今に至っている。しかし、問題は、やはり、女性は男性に対して相対的に弱い。それ故の嘘をつく(=身勝手)。これから、女性が、社会に於て重要な地位を維持するための要件は、妄念=嘘からの自由である。女々しい男性は、掬われるには時間がかかる。
 
代々、禅僧の悟りとは、現実一切が、たとえば、銀幕のスクリーンであった。
 
仏陀とは、眼(まなこ)ある方である。それぞれ、どのような目をしているか。諸タレント、サングラスで誤魔化したその目は、唯、欲望の目ではないのか。錯覚。否。涙雨。
 
蘇我氏の魂は、あるいは、今、鹿の中か。宮島、あるいは、奈良に於て。
 
孫にも衣装の意味。着るべき者が着れば、どんな装いもファッションとなる。


2005年12月10日
馬宿の王子
その運命は誰も知らない。捨て子状態で始まる。しかし、いつかは、自分に気づく。現代社会に於ては、あまりにも時間がかかることであった。発芽するために消費するべき養分は自分の中にあるとしても、自分を理解する者は周りにはいない。芽が出るまでは誰も気づけない。獅子は子を千尋の谷に落とす。しかし、神々は始めより祝福している。じっと待っていた。直接彼に不利益を与えるものに対しては、神々が処分しながら、その子の誕生は、時代の約束として。誰も知らない。因って、神秘である。キリストが処女受胎と言われる所以である。マリアも気づいていなかった。旧約聖書は続行中である。今より、そのいくつかが実現される。庶民はお陰を気づかざるを得ない。すべては心より始まる。その心には、質に於て、上下がある。水は高いところから低いところへ流れる。自然の摂理が復興する。愚か者の支配は終わる。もはやあらゆる人為的勝手は通らない。自然の意思が実現されるだけである。自然に受容されること。唯一の要件である。時が満ちたとは、こういう意味である。「自然に帰れ」の実現。自然を粗末にすることなかれ。しかし、堕落し、それを助長した、汚れた人間には決して理解できない。しかし、自然は意思を実行する時を迎えた。信じるべきは信じるべし。「信を以て入ることを得たり。一切大衆、自ら出ることはできない。唯、善業の因縁より出ることができる。香風来たって、古きものを散らし、新しきものを雨らす。一切衆生、功尽きて、大火に焼かるると見るときも、わが子の土は安穏なり。謝るところからしか入れない。時代は明るきから明るきへ。」時である。日月そろって、明るい。陽極と陰極とで灯りは点く。もはや、始まっている、21世紀。灯が燃えるためには、酸素が要る。酸素を供給する時代である。善人は神々が掬い取る。悪人は淘汰に任す。善人とは正直者である。代々の罪がある。覚悟するべし。
何故勉強するか
この生を受けて、自分のやりたいこと或いは為すべきこと(使命=生まれた意味)を発見する為。その為に、色々と、過去の文化を通して学ぶ。それは、内容だけでなく、諸人の方法。さらに価値基準。しかし、人間は往々にして間違う。間違った文化もある。現代は、むしろ、間違えた果実。反省を要する。無意味・無価値・堕落・低俗を自然は好まない。常にフォローを要する。スタッフ一同の怠慢であり、世を汚す罪は重い。時が満ちた今、本来の価値=文化を無視した彼らは淘汰=処断される。彼らの奢りの時代は終わる。得知らずとも。クラシックとはならない。社会腐敗の原因である低俗な刹那的快楽助長は猛反省の時である。何をしても自由であるが、その結果に対する責任があることを忘れないように。その基準は自然の摂理と言って良い。これが、ロゴスである。今、世間はこのロゴスを見失っている時代である。法=自然(神)を超えては生存できない。嵐には堪えることしかできない。命を懸けること(目的)を履き違えないこと。迷惑は迷惑である。悪の花は咲いたときに摘み取られる。根を抜かれる。馬謖は斬られる。時が満ちるまでは斬れなかったとしても。
 
菩薩道
「三千大千世界を観るに、乃至芥子の如き許りも、是れ菩薩にして身命を捨てたもう処に非ることあることなし。衆生の為の故なり。然して後に乃ち菩提の道を成ずることを得たまえり。」「又聞いて菩提を成ずること 唯佛のみ当に證知したもうべし 我大乗の教を闡いて 苦の衆生を度脱せん」(大乗仏道に於て、菩薩としての道を歩むとき、このための故に、衆生は救われ、また、この道を以て、菩薩の道も成就する一乗と言うべきか、そして、この事を知り、証明するのは、唯佛のみ、と。)「無量の衆生法を聞いて解悟し不退転を得、無量の衆生道の記を受くることを得たり。・・・娑婆世界の三千の衆生不退の地に住し、三千の衆生、菩提心を發こして受記を得たり。」(提婆達多品)
 
しかし、気づいてみれば、世の中に於て、自分の必要は足りている。足りないと思うのは、唯、自分の欲と言うべきか。そして、足りないところは、実行努力することで、やがて、その方法に至る。方法に至れば、さらに、実行努力することで、その果実を得ることができる。そうして、順々に満たされる。しかし、果実を得るためには、失うべきものが、自己内に生じる。それは、心の消耗であったりもする。だから、何も求めず、自然の中で充足できるなら、それが無量の幸せということにもなる。要は、バランスであって、心に障りなくんば、吉。至極簡単明瞭。すでに、与えられていることを知ることで、焦ることもない。淡々と生きてゆける。但し、自然から受容されている実感は別論と言うべきか。本来求めるは是であり、知足は、その為の入り口と言うべきか。
 
「深く罪福の相を達して あまねく十方を照したもう」「世尊の納受是の事疾しや不や。答えて言わく、甚だ疾し。」(提婆達多品)「過去に佛いましき、・・・國を現一切世間と名け、劫を喜見と名く(世間現実、自然=宇宙に受容・祝福され、知足を以て喜びと見ることで佛の知見を得)。・・・華徳、汝が意に於て云何、爾(神)の時雲雷音王佛の所に、妙音菩薩として伎楽をもつて供養(相手が喜ぶこと)し寳器(人格)を奉上せし者、豈に異人ならんや、今此の妙音菩薩摩訶薩是なり。・・・神通・変化・智慧に於て損減する所なし。・・・其の三昧を現一切色身と名く。・・・是の妙音菩薩來往品を説きたもう時、四萬二千の天子、無生法忍を得、華徳菩薩、法華三昧を得たり。」(妙音菩薩品)
 
「若し是の城(涅槃城)に入りなば快く安穏なることを得ん。若し能く前んで寳所に至らば亦去ることを得べし(佛所において安穏世界を知り、本来の桃源郷は、神仏=自然より受容祝福され、大神通力・大安心を見得したならば、やがて、現実世界へ帰還すべし)。」(化城諭品)天=神を知る、これ大和民族なり。これを真に畏れることなき方々の時代、終わるべし。神仏知れば、惡は為さぬものなるが故に。他者を粗末にすることは無きが故に。命=宇宙=魂=自然を知るが故に。ここより、衣食足りて、やさしさの理念へと至る。妄念=嘘こそ地獄の門。神は正直者の頭に宿る。神=天に虚実無し。無とはこれである。この無は有る。ここを畏るべし。今、改めて現成公案の果実を得る時代を迎えている。目的はやさしさであり、その手段としての愛と平和。21世紀、人類の階梯。やさしさは、思うことなくして、至福。足りている。四百年来の重商主義・金銭至上主義の終焉。本来の価値の発見。人格=魂の歴史的意義と変遷。過去からの約束。秘められていた種としてのDNA。眠られし神、乃ち、現在前。(2005/12/10 0:32am NHKラジオ深夜便を聞きながら)すでに、我、思うこと無し。我、思わずとも、帝則有り。その法の真実なるを知れば、安穏にして、身を任す。自然は神、容赦なく、淘汰する。(2005/12/10 0:55am RCCラジオを聞きながら)
 
「我等宿福の慶あつて 今世尊(久遠実成釈迦牟尼佛)に値(日給)いたてまつることを得たり」(化城諭品)(2005/12/10 1:04am RCCラジオ オールナイトニッポン を聞きながら)
2005年12月09日

十六王子
法華経に十六王子とある。十六人いるか。十六の属性である。王子は一人である。また、法に於て現前しないとある。自然は既に成就している。法とは、現実のことである。人間レベルが低すぎる。また、釈迦牟尼佛が、最高ではない。最高は、如来である。存在意義が違う。如来も一人である。あらゆる如来の属性を以て、様々な如来相を示す。そして、普賢、如来より来たる。王子は、元服して、法王となる。過去よりの約束である。併し、その道程たるや、その試練たるや、その資格を得るためのプロセスは、物語に有る通りであった。だれかれ堪えうる道ではない。蚕が繭を吐くには、透明と成らねばならぬ。それは、一つの死である。敢えて飛び込めるものではない。自然の導きによるしかない。さもなくば、長い繭の時代を人知れず、生存しうるべくはない。多くは、脱落する。脱落を以て大人と称している。大間違いである。大人と称して大きな顔をしてきた者たちは畏るべし。脱落した者に、チカラはない。もはや、あらゆる釈明もない。來生に夢を託すが良い。(2005/12/09 3:41am 「走れ歌謡曲」を聞きながら)
 
法華経は、大乗であるが、それは、己の悟りのみを以て価値とする小乗に対する革命であった。則ち、利己主義に対して、周りが幸せであれば自分も幸せであるとする、菩薩的立場の宣言であり、そのパラダイムの設計図であった。あたかも、現代に於ては、現在勝ち組に対して、断罪であるかのようである。また、彼らは自由を以て、荒野に住した。地より涌出する、知性を有した者たちの新しい時代の夜明けであり、船出である。また、空閑(=荒野)の摂理或いは決闘の極意を知っている者たちの時代の始まりである。
 
聖徳太子は馬宿の王子である。キリストも亦馬宿の王子である。王子はこのようにして生まれる。
 
マンダラケ、大マンダラケ。宇宙からの証明である。あらゆる事象がその存在を証明する。風景も然り。動植物も然り。自然の祝福である。時が満ちて、神秘が神秘ではなく現実であり、偶然が偶然ではなく、神々の存在証明としての必然であることを知る日が来たのである。それは、過去からの約束であり、秘められていた種からの開花である。時が満ちるとは、人間の傲慢が熟するときであった。人間の惡が満ちるときであったのである。あらゆる物語がそれを証明している。因って、新しい時代の始まりである。
 
「中腰で待つ」とはね、相撲に於て構えていて攻めていかない、剣の果たし合いに於ても然り、あるいは、テニスに於ける姿勢、・・・わかるかな。「歴史認識は待つしかない」は当たっている。一問一答、ご挨拶ってこと。つまり、キャッチボールだね。やがて、一つの答えが返って来る。民事訴訟法の鉄則は当事者主義、攻撃・防御。(2005/12/09 7:45am RCC 武田鉄矢を聞きながら 良い内容だった 笑えた)ビリー・ジョエルの歌って、エルトン・ジョンとトーンがよく似てるね。共通因数は「J」? (ま、いいか、誰かが舌打ちしている。誰だろう?羅刹か?)日本は変わった。面舵一杯である。進路良し。ところで、平家の家紋が蝶でしょうか。華は?櫻は?・・・そろそろ、ノーサイド(試合終了)かな? もはや、敵がいない。あるいは、始めよりいなかったか。しかし、あまりにも、腹に据えかねた。(by 羅刹:「明治のオオバカをなきものにする」[羅刹の生まれたときからのテーマ])
 
清盛の日招き岩
2005/12/08 今日、宍戸屋に寄って、宍戸氏とてっちゃんと話した後で、高烏台へ行きました。音戸ノ瀬戸を開いたのは平清盛ですが、工期が遅れたのでしょうか、完成の日に、扇で夕日を扇いだと言われています。さて、到着してみると、白いネコが二匹お出迎え。にゃーと。そして、日招き岩へ先導してくれました。気づくと、藤猫も一匹いて、先頭に立って道案内してくれました。そして、日招き岩の所では、彼らと遊びました。清盛が見たであろう音戸ノ瀬戸もしっかりと見てきました。さて、この瀬戸は、浅瀬であったらしく、それを掘ったのですね。
http://www.pc-kure.net/GT/doc/kiyomorinohimanekiiwa.htmlより

2005年12月08日
普賢菩薩
「爾の時に普賢菩薩、自在神通力・威徳名聞を以て(爾と言われるべき方が、自由を得て、神通力とでも言うべき、自然の守護を得て、そのチカラを世に示し、その存在が世に知られ)、大菩薩の無量無辺不可称数なると東方より来たる(菩薩の行を成就して、このチカラの存在を知っている多くの方々を眷属として、その方は日本にいる)」。(普賢菩薩勧発品第二十八)
 
「普賢菩薩其の人の前に住して、アマネク十方の佛を禮せん、十方の佛を禮しオワリなば、普賢菩薩其の人の前に住して、教えて宿世の一切の業縁を説いて、黒惡の一切の罪事を發露せしめん(その人は、普賢菩薩が現れて、この世の一切を知るチカラを得て、諸佛をみる、そして、世間の腐敗と真実=清浄へ至る道を説くことになる)。」「廣く説くこと妙法華経の如し。」「諸の惡声を聞く時は煩悩の毒を起し、処処に惑著して暫くも停まる時なし。此の弊声を出して我が識神を労し、三途に墜堕せしむ。」「普賢の行を行ぜん者は惡相及び惡業報を見じ。」(観普賢菩薩行法經)
 
(真実は、法華経が良い。道元も最期は法華経を読みつつ、遷化した。成仏とは使い切ること。命も使い切る。命を使い切るとは、ロウソクの如く、命の灯を点し、燃え切ること。)
 
「爾の時に釈迦牟尼佛讃めて言わく、善哉善哉、普賢、汝能く是の經を護助して、多所の衆生をして安楽し利益せしめん。汝スデニ不可思議の功徳・深大の慈悲を成就せり。久遠より來、阿耨多羅三藐三菩提の意を發して、能く是の神通の願を作して是の經を守護す。我当に神通力を以て、能く普賢菩薩の名を受持せん者を守護すべし。普賢、若し是の法華經を受持し、讀誦し、正憶念し、修習し、書写することあらん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼佛を見るなり、・・・」。(普賢菩薩勧発品第二十八)
命の華
華を咲かせる。命の華である。自分が自分となることでその開花が成就する。そして、一度咲けば一生咲くことができる華である。これを以て、蓮華の前に化生すると言う。要件は、きれいなままでいることである。きれいは、身心の状態である。併し、世間は汚れすぎた。汚れることを良しとした。汚れたものにとって、自己否定はできない。だが、この度はそうはいかない。真実の華が咲いたからである。アマテラスが岩戸から出たに等しい。それは、世間の認知など必要としない。あらゆる自然と記録が証明している。
2005年12月07日
40才になったら顔に責任を持つ
リンカーンのところにある人が紹介された。しかし、何時までも雇って貰えなかった。リンカーンは言った。40才を過ぎたら、自分の顔に責任を持て、と(子供の顔の責任は親にある)。よく言われることだが、若い時分は左翼でよい。しかし、齢を重ねて、何時までも左翼では困る、と。ところで、てっちゃんは、私の誘いを断ってまで勉強すると言う。むしろ、宍戸氏の眷属であったようだ。彼の言うことをよく聞いている。ま、彼の選択だ。これまでのパタンである。彼に対する私の役はここまでのようだ。次のステージの始まりなのだろう。
 
これまでは、教育の名で、道徳を指導してきた。しかし、何時の頃からか、機能しなくなった。アメリカ的少年犯罪化傾向が熟しつつある。さて、道徳を教えることが、そもそも不遜であったのかも知れない。今、教えるべきは、客観的法則(サンクションを含む)でよい。道徳的価値判断は不要となったのかも知れない。教育的配慮を拒んでいるグループに対しては、結果について、厳罰に処するしかない。少年だからといって、責任無能力とは言えない場合もある。分野に於ては、少年の方が、精神年齢的に高い場合もある。また、知識も豊富な場合もある。そういった時代である。
 
開聞岳の麓にツキノワグマの石像がある。アイヌである。クマソ?隼人?出雲?明治(下級武士[脅迫、嘘]→商人[詐欺]:虚実)?大和(神[正直]:実質=真実)!
 
維摩居士曰く、「衆生病む、故に、我病む」。処方はなかった。自らのチカラとtimeとで癒すしかなかった。悟得のみ。因って、也自由。唯自証正雄(セヲウ→セイオウ)。[如来正雄は常に世間に在(いま)す。(妙法華経p29)]
 
そして、維摩居士は吐露した。二度と病みたくはない、と。また、羅刹が言った。自分一人で、世の破滅を止めている、と。自分(=時分)が諦めたなら、世が終わる。ゴキブリ以下の人間ども、潰しても惜しくはない、と。ダイナマイト。ノーベル賞如きでその罪は消えはしない。況や、アインシュタインをや、と。ナンダ(何者だ)、こいつらは?天命!
 
しかし、人間というのは、どうして、かくも、自分勝手であり、自分計算するのであろうか。自分だけの利益のために。すべて、天はお見抜きお見通しであり、そのそれぞれの行為に天罰は下るべくものなのに。自分の身は守りながら、自分の利益のためには、奪うことしか考えない。世間は、それが人間であり、人生だと言う。私は、みな、奪われたよ。哀しいね。
 
球拾い
スポーツ選手として立身するなら、球拾いである。その間、諸先輩を観察する。時間をかけてイメージトレーニングしている。そして、自分の時が来る。既に勝負は決まっている。体育系クラブ活動で脚光を浴びる極意である。実践に於ては、冬で次の夏が決まる。冬は走り込む。足腰を鍛えておく。新庄剛志選手の方法論はタレント的であり、商売(ビジネス)的であって、スポーツ選手としてのそれではない。だから、実力だけの結果がない。これが、民放テレビ放送における視聴率主義の結果と同じである。しかし、視聴率の基準が変わる。これまでの衆愚依存ではなく、需要を作るように、視聴率市場を作ると良い。制作者の意識転換、喚主体性。従来のマーケティング理論の終焉である。市場調査ではない。既存の市場は狂っている。新しい市場の開拓である。そこを耕し、種を蒔く。やがて、芽が出て葉が出て花が咲く。その過程は歓喜を伴う作ること。スタッフの方々、先の見えないまま苦しんで仕事しなくて良いね。
 
勉強の極意
人の三倍のスピードで人の三倍の量をこなす。時間は平等であるが、九倍の効果がある。禅語に「十二時をこき使う」。世間一般は時間に使われている。そして、無限軌道に乗る。乗れば自由時間空間が待っている。そこへ至るまでの勉学努力である。大丈夫。この世に何も畏れるものなど無い。世間一般を超越している。手がつけられない。しかし、・・・。
 
2005年12月06日
雪を担いで井戸を埋める
禅語に「雪を担いで井戸を埋める」が、わからなかった。今、思うのは、雪は清浄心。世間一般からすると無益な行為である。しかし、この行為こそ、身の清浄を得る。そして、はじめてわかる。
 
世間は合理性を言う。そして、ビジネスが人生の目的であるかのように、辛い日々を日常としている。幸せを求めて苦しんでいる。合理的ではない。衣食足りて礼節を知る。衣はある。食もある。さらに、何を求めての経済行為だろう。幸せ。幸せは、こころの領分である。それは、喜ばしき環境の中にゐて有る。環境は人間関係を含む。下町情緒。生きること。生活。目的を間違えていないか。美しい自然がある。昨日来雪が降った。雪絶景。山々は最後の紅葉が鮮やか。そして、雪の白。雪が降って、空が澄み、それを映した冬色の海の色は陶器色グリーンである。呉線沿線。瀬戸内海国立公園。切り取られた絵のように、美の瞬間があふれている。自然のやさしさに抱かれて、美しい風景を、見ている。見せてくれている。風景と溶けあう。至福。起こるべき事は常に起こっている。気づけるかどうかが、幸・不幸を決定する。自分の世界の確立。世間の影響からの独立。世間の中で餌食となること無し。自分に克つ。世間に勝て。「負けるな一茶これにあり」。
 
さて、広島大野王舎城には、三体のご本尊様がある。一身即三身、三身即一身、無作三身のご本尊様である。これが、知・仁・勇を表す。つまり、方法を教えて貰う。勉強であり、学ぶことである。理入である。そして、行をして、仁を得る。行入。仁とは、やさしさである。正しい方法を実行することで、人格としてのやさしさの価値を知る。そして、さらに実行する。実行は勇気を要する。飛び込むに等しい。方法が正しく、人格があれば、神仏=自然が掬い取る。「飛び込んだ重さで浮かぶ蛙かな」。釈迦も飛び込んだ。帝釈天=宇宙・自然が掬い取った。究極の目的は、神仏=自然に認められることである。これが本来の幸福論であり、ヨブ記の約束である。
 
人間であるかぎり完全な存在はあり得ない。多かれ少なかれ、障害を持っている。その障害が亦乗り越えるべきもの。この障害を通して自己を知り、自己を磨く。此処を通して真実(命)へと至る。近道かも知れない。ある青年が、肩から二の腕に火傷があった。子供の頃、家に火事があったか。その青年は屈託なく「勲章だよ」と言った。強く生き抜くことができれば、それで良い。所詮、魂の遍歴である。来世へのバトン・リレー走者である。人生は魂を宿すヤドカリである。永遠の百代の過客である。法華経に宿王華。何を宿すか。時々の選択の結果である。一切種智慧。己にある種は何か。どの華を咲かすのか。秘密は至ってシンプルである。代々の種が才能であり、可能性である。教育の目的も見えてくる。それは、DNAにある。矯めるべきは矯める。直すべきは直す。来世のためである。子供達のためである。未来は明るい。才能は経済的利益追求の具ではない。純粋精神及び諸才能を弄びし低俗世間一般要猛反省!
 
良寛
しばらく、良寛がわからなかった。意識が低いように思っていた。しかし、本当に至ると良寛だろう。ある日、食べる米がなくなった。親戚に手紙を書いた。米を貰って礼を言うことはなかった。とらわれることがなかった。良寛もはじめから良寛ではなかっただろう。いつしか、妄念が焼き尽くされた。良寛となった。やさしさだけがのこされていた。
 
「遊びをせえんや生まれけん 戯れせえんや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ動(ゆる)がれる 」
 
  花無心招蝶    花 無心にして 蝶を招き
  蝶無心尋花    蝶 無心にして 花を尋ねる
  花開時蝶来    花 開く時 蝶 来り
  蝶来時花開    蝶 来る時 花 開く
  吾亦不知人    吾れも 亦 人 知らず
  人亦不知吾    人も 亦 吾 知らず
  不知従帝則    知らずも 帝則に従う
 
道徳とタブー
道徳の目的は、円満な社会生活の形成のためにある。タブーもそうですね。しかし、道徳とタブーで縛ることで、人格の形成に、むしろ良くない傾向を付与することになるのかも知れない。強制すると必ずその反動がある。道徳とタブーからの解放が必要であるのかも知れない。要は、社会の形成。ゆがめられた人格が、結果的に、悪影響となるなら、その原因としての道徳とタブーは見直すべきだろうか。また、これらのことが、支配の手段として機能している。さて、大切なのは、should と must についての反省。意味のない強制ではなかったか。基準は、健全な社会。今、社会は、おかしい。目的は、心の自由。関係の形成。思う通りに行為して、しかも、法を超えない境地。自分にして欲しいことを人にしてあげる。しかし、往々にして、自分はしてもらいながら、人にはしていない。世間一般。価値の見直し。
 
いつもやさしい気持ちでいることができること
経験が大切なことは、森有正氏が言っていた。実験することで証明される。いつもやさしい気持ちでいることも、試してみる。はじめは意識している。やがて、その趣がわかってくる。こうしていることで、すべて整うことに気づく。思い煩うことなかれだね。
 
法師品第十
「我皆記を与え授く」(法華経に出会いこれを信じて讃嘆随喜する者は、記録としての仏の述べる真実を理解することになる)。「此の経巻に於て敬い視ること仏のごとくして」(法華経こそ仏であるのは、弘法水が弘法大師そのものであるのと同じであり、代代の仏が其の仏の真実を知り、信じ、認め、これを以って修行し、仏とはなったので、その言葉の数々に、真実としての実体がある)。
 
真実の花
「時に一りの導師あり 強識にして智慧あり 明了にして心決定せり 険しきにあって衆難を済う 衆人皆疲倦して 導師に申して言さく 我等今頓乏せり 此れより退き還らんと欲す 導師此の念を作さく 此の輩甚だ憐むべし 如何ぞ退き還つて 大珍寶を失わんと欲する」(化城諭品)
 
今思えば、すべての事実が、道標であった。何度か気づいたこともあった。しかし、其の都度、自ら背いたことだった。真実は、自らの悟得の他に其の道はない。この度のこの道は、もはや、疑うことはない。周囲世間のいくら知らずとも。真実の花はひそかに静かに咲いている。宇宙の命の花として。
 
2005年12月05日
てっちゃんに言ったこと
何か具体的なことをしたか。その後何もしていないではないか。すでに魅力はなくなっている。思うだけ、言うだけでは、何も変化は起こらない。実行して初めて次の課題が現れる。次第に課題を解くことで進歩する。やがて、望みは具体化する。当たり前のことは言うな。話を落とすな。公理と定義と定理の違いを知っているか。こうしたことも知らないのでは、語ることはできない。勉強をなめていないか。礼儀がないにもほどがある。
 
聖徳太子 蘇我入鹿
ある方が面白い話をしていた。趣味は考古学である、と。さて、聖徳太子も蘇我入鹿も実在しない。聖徳太子が馬宿の王子と言うこと自体ナンセンスである。蘇我氏については、読みが、「われよみがえる」となる。「入鹿」は、「海豚」である。「鹿に入る」は、ナンセンス。名前には意味がある。親が名前を付けるとき、無意味な名前は付けない。こうした状況は、キリスト=ユダヤ經の系譜でなければ説明できない。考古学的に掘れば解るであろう場所が制限されている。邪馬台国についても掘れば特定できる。しかし、掘らせないある力がある。ピラミッドもそうである。ピラミッドは人間の作品ではない。あれほどの建造物の建設は、人間には無理である。漢字は中国で作られたと言うが、その原型は日本にあった。同時代に、古事記と日本書紀のふたつの歴史書が作られたことは謎である。さて、聖徳太子は蘇我入鹿とのセットで理解できる。現実に統治していた者が別にいた。彼は表に出ることはなかった。聖徳太子は、人間として完璧すぎる。謎ばかりである。旧約聖書は読む人によって異なった姿を現す。復讐の鬼となるか、あるいは、福音となるか。等々。・・・目からウロコだった。(神々はいた。今もいる。日本にいる可能性が高い。神々は人知を超えている。どのような現れ方をするか誰も知らない。)
 
サービスの捉え方
量販店で家電を買う。価格は安い。しかし、往々にして、専門知識に欠ける。ユーザーとしては後で困る。専門店で何かを買う。価格か高い。しかし、ユーザーに対するアフターサービスは充実している。一般世間消費者は、量販店においては、アフターサービスを期待している。専門店に対しては、価格の安さを要求する。サービス料はまた無形の技術料である。消費者は自己計算する。価格はサービス料を含む。それを価格破壊と称して、安さで勝負するとする。当然、どこかで、費用の調整がある。経営レベルで価格破壊をする。誰が泣いているか。技術者である。技術が衰退する。全体の基礎的体力を犠牲にしている。愚。そして、消費者の身勝手。日本経済の実体。お金は使うべきものである。フローである。ストックではない。さらに、お金は労働の対価である。お金が利益を生むこと自体が矛盾している。マネーゲームは、亡社会システムである。巨大資本にとって個人投資家は餌食に過ぎない。目覚めよ。本来技術立国日本。作る人(メーカー)よ、立ち上がれ。商人に負けるな。或いは成り下がることなかれ。(2005/12/05 2:59am NHKラジオ深夜便を聞きながら)
 
ところで、私は、高校受験も大学受験もひとつしか受験してはいない。大学受験の日は、五十数年来の大雪で、辺りは、雪国だった。父は、16歳で志願した。戦地は最北端カムチャッカと聞いているがはっきりしない。また、復員後、網走で刑事だったとか。今も、網走から便りがある。すでに、私の人生、一切恥じるところはない。この身ひとつで、火裏蓮、どんな勝負でもできる。しかし、私の働き場はない。とか誰の言だろう。羅刹か。奴は言った。雑魚ばかりの世の中である、と。
 
2005年12月04日
良い環境は自分で作る
 
「若し妙音を以て 三千界にヘン満せんと欲せば 意に随つて即ち能く至らん・・・是の如き諸の天衆 常に其の所に來至せん 諸佛及び弟子 其の説法の声を聞いて 常に念じて守護し 或時は為に身を現じたまわん」「若しは独若しは衆にあって 説法する悉く皆現ぜん」「又浄明なる鏡に 悉く諸の色像を見るが如く 菩薩浄身に於て 皆世の所有を見ん 唯独自ら明了にして 余人の見ざる所ならん」「未だ無漏法性の 妙身を得ずと雖も 清浄の常の体を以て 一切中に於て現ぜん(自分自身が宇宙であり自然であり魂であり、現実は自分自身の反射である)」(法師功徳品)
 
ありのままで良い。ありのままの自分で勝負する。負けても良い。負けてはじめて強くなっていく。やがて、強くなる。いつまでも思うだけで何もしないなら、弱いままで終わる。強くなれない。スポーツ系の極意は、練習しかない。練習の過程に多くの発見がある。自分だけの技も見つかる。それで勝負するのである。勉強・勉学・研究に於いても奥義はひとつ、同じである。目的はそれらを通しての人格の涵養であり、確立された人格は何を為しても事を成す。垂直の秩序を持っている。今、ビジネス・芸能・マスコミ界に、この精神が見られない。あるのではあるが、抹殺されている。本来の価値・基準を見失っている。本末転倒している。ジャパン・アズ・ナンバーワンを履き違えた、安易な利益至上主義の結果である。自ら驕り、本来の価値をわらいものにし、本来の道しるべを見失っていたのだから仕方ないとしても。惜しいことである。其の所産がバブルであった。其の責任のとり方は、其の当事者の総換えかも知れない。今ある地位にいつまでもしがみつこうとしても、自然が許してはくれないであろう。既にそれほどの罪を犯してしまっている。(NHKラジオ深夜便を聞きながら 2005/12/05 2:20am)

自分に克つ
方法は教えて貰う。そして、それをよくわかり、実行する。このよく分かると言うことが大切。一(マイナス)を聞いて十(プラス)を知る。実行すればそれだけの結果。その結果を分析・反省して、新たな実行をする。仏もそうして仏となった。はじめはマネをする。マネをしていると、それが、何時か自分のものとなる。自分のものとなって、初めてわかることがある。これは、真っ向相対峙自己真剣勝負を要する。恐らく、自分に克つ戦いが一番熾烈。諸先達の喜ぶところは、出藍の誉れ。惜しみはしない。何か一つ、加えることができるなら、それで良い。学ぶことの大切さ。解ることの重要さ。実行することの大切さ。反省することの大切さ。さらに、実行していく。結果の評価はあまり重要ではない。立ち止まっている暇はない。諸結果は後世のための一里塚に過ぎない。やがて、真実を見る。真実とは、あらゆる一切が自分にとって鏡であり、意味があったと知る。世界がささやきかけてくる。祝福している。真実を、粗末にすることなかれ。真実の究極は、精神一刀での処断である。世間、知らずとも笑うことなかれ。
 
てっちゃんからのメール
「昨日は格好良かったね!あんちゃんだけが本当の自分で真っ向勝負して、オーラだけ見たら完全に主役だったよ!その点ではみんな置いてけぼり!あんちゃんはタレントにも負けない本物の芸術家じゃね!」
 
ところで、「朕は国家なり」?「朕は地球なり」!
また、『三遊記』:てっちゃん、宍戸氏、私。三蔵法師は、王舍城教主先生かな(否、先生は久遠実成釈迦牟尼世尊)。さらに、龍樹、クマラジュウ、出現成るか。
 
2005年12月03日
対談
今日、加納竜氏と対談した。『国際ジャーナル3月号』に載るという。少し言い足りないところもあったけれども、調和のある内容で終始した。お互いにフォローできたと思う。これで良いと思う。彼とは生年月日が近い。彼の本姓は、私の母方と同じ読みである。身長も同じ。何だか、因縁を感じざるを得なかった。
 
横須賀のアメリカ空母
キティ・ホークからジョージ・ワシントンへ。新しい時代の始まりですね。幾多の試練を経て、良い時代となりますね。新大陸。新世界。
  
2005年12月01日
呉市安浦町中切川の源泉 野呂山弘法寺
野呂山弘法寺の弘法水
  
早乙女勝元氏の一言 
作家 早乙女 勝元 「知っているなら伝えよう、知らないなら学べ」(NHKラジオ深夜便 2005/12/1 23:52)
 
2005年11月25日
帰還
人生は旅
生まれたときから 始まっていた
ドコへ到るか
それぞれの 道
道元は空手にて帰ってきた
何を得てのことだったろうか
何を見てのことだったろうか
その間 幾多の試練もあった
そして やがて 帰還する
既存を超えた世界にいる
 
約束
約束は果たす
果たすことで成就する
結果は問わない
佳ければ佳し わろければわろし
果たすことで おわる
おわりは また 始め
親と子も
新しい 始まり
代々の 始まり