| 後藤静雄改め康夫プロフィール(2008/04/10現在) | ||||
| 〒737-0823 広島県呉市海岸三丁目十番二十二号 JR呉線川原石駅下車徒歩3分 TEL/FAX (0823)25-5747 携帯電話 090-1017-5303 E-mail info@pc-kure.net HP: PC-KURE.NET |
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| 誕生日 | 昭和三十一(1956)年 【丙申】四月士日23:34生まれ |
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| 星座 | 牡羊座 | |||
| 誕生石 | ダイヤモンド | |||
| 血液型 | B型 | |||
| 動物占い | 子守熊(コアラ) | |||
| 手相 | これほど恵まれた手相は写真でも見たことがないとのことだった。あらゆる能力を持っている。完璧な能力である。二重生命線、成功線、情が基本にあって、頼まれたら断れない。欲しいものは何でも手にはいる。そして与えることも出来る。生きている次元が違っている。求めるものが違っている。タイミングを計っている。祖先には武将がいる(武将だけではない。流れている血が違う)。ものすごい守護がある。既に完成している。これだけきれいな人生を生きた人はいない。 | |||
| 祖先 | 父方:父後藤昭亮(16歳で志願、カムチャッカ赴任、戦後網走に復員(刑事?)、やがて帰呉、国鉄職員、生涯現役、最後はブルートレイン機関士、定かではないが、予科練の教官もしたという、家にはケンパスと絹の紐で出来たまっさらなパラシュートと海軍の毛布があった)、祖父良亮、尊祖父広島大手町桑原千畝(広島藩城代家老と聞いている。祖父と墓を守っていた)、嘉兵衛、覺兵衛(或る所で祖先供養の方法を教えて貰い、広島中区区役所に祖先は眠っていた。手渡す時の官吏の手は震えていた。この一本の除籍謄本で六代遡ることができた。覚兵衛獅子は祖先かと思ったこともあった。忠臣蔵に懐かしさを覚えるのはいうまでもない) 母方:広島白市山持(山道)家(除籍謄本は安芸河内町にあった。呉で大地震があったが、その時これを申請中だった。河内町は震度6だった。亦、この地震があったのは或る道場で祖先の供養を初めてさせて貰った日の帰りのことだった) |
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| 座右の銘 | 日月照らし、風が吹く。 | |||
| 身長 | 178cm | |||
| 読書 | 吉田健一、森有正、辻邦生、ヒルティ、アラン | |||
| 幼稚園:明徳幼稚園 | お遊戯会:音楽指揮、弁慶役 | |||
| 小学校:呉市立港町小学校 | 音楽会:コントラバス(於呉市民ホール、曲目:ウィンザーの陽気な女房達)及びタンバリン(大学祝典序曲)担当(この頃、ソルフェージュとカデンツァをみっちりしごかれた、弓は馬の尻尾である事を知った)、鼓笛隊(総勢160名、トランペット及び太鼓等、あらゆるパートの教育を受けた)総指揮(呉みなと祭り行進、呉線電化に伴う最終ジーゼル車を呉駅にてお迎え)、新聞部長、放送部長、毎週金曜日朝礼全校お誕生日会司会、オペレッタ「シンデレラ」白い鳥役 給食時間DJ、方形校舎屋上気象観測記録(夏休みも毎日実行)。担任:竹花礼子先生、本田照子先生(もしもの時はと、ロッカーの鍵を預かっていた)、前門戸露子先生(呉市で二人目の女性校長)[すべて広島高等師範卒]小4の頃のことだった。担任の本田照子先生はピアノが上手だった。その頃、学芸会は音楽会だった。先生はオペレッタの伴奏ピアノを弾ききった。とても感動的だった。その頃、先生は病弱だった。ある日先生はロッカーの暗証番号を教えてくれた。何かあったら、あなたが此処を開けて処理するのよ。小5の頃の事だった。担任の先生は前門戸露子先生だった。授業中に、会計帳簿と生徒から集めたお金を入れたいくつかの封筒を持たされて、全校の係の先生を訪ね、印鑑を貰ってくることが日課となっていた。小6の事だった。校庭にライオンの石膏像を作ることになった。これも授業中に選ばれた数人が作業した。とても立派な獅子座像ができた。 | |||
| 中学校:呉市立両城中学校 | 庭球部呉市民大会第二位、県体育大会呉市代表選手、県西部地区団体戦第三位、勝率9割以上、団体戦メンバーとしては無敗(何故か個人戦の多くは雨で流れた)、学業成績席次:首席もあり(1/207) 三年二学期には9教科中、十が8つだった。表示上は6つである。2つは他に譲っている(担任の弁)。十でなかったのは国語だった。故に人生に苦労した。問題作成者の用意した答えが答えだと思わなかった。真実真理が答えだと思っていた。その後それも克服した。ところで、国語の先生は福間先生だった。ある日本読みをして褒められた。とても良い声をしているから大切にしろとの事だった。平生点としていつもの二倍を貰った。この頃より命も賭した孤独な旅が始まった。ヘッセの如く『内面への道』だった。帰ってくることが出来なかったかも知れなかった。小学校から中学校まで各学年、一学期学級委員は指定席だった。それが今はどうだろう。このギャップは不幸である。しかもその理由が示せない。三十有余年の孤独があった。思えば社会的な自殺行為だった。そのまま埋没かと思われた。何か方途はないものか。一人旅に出たのだった。この頃、公害があった。理科第二分野の藤岡先生は公害の権威となった。その頃、近くの二河川でもお化けハゼが釣れていた。その後、大学で不法行為を研究した。そして受忍限度論及び疫学的的証明の転換の解釈論の努力を知った。企業は利益追求を目的として何をしているのかと思った。 | |||
| 高等学校:広島県立呉三津田高等学校普通科 | 旺文社全国読書感想文コンクール入選、テーマ『二十日鼠と人間』(高一の夏休みの宿題だった。提出日の前日にメモを作り、当日教室の片隅で仕上げた。全校生徒千人を超える中で入選したのは二人だった。文芸部の顧問の先生(奈良女子大卒)から冬の寒い校庭の鉄棒の傍らで、一緒に文芸をしましょうと一時間あまり口説かれた。その頃、文芸など女々しいと思っていたのでお断りした。亦、この頃、学校は全共闘の余波が来ていて、勉強する雰囲気ではなかった。学校の勉強をしているのは、利己的な人間のように思われた。そして部落研究会の嵐があって、或る先生が吊し上げられ、2回も全校集会があった。それで訳のわからない本ばかり読むようになっていた。その後、柔な読書はしていない。この頃、「人間関係は同レベルで触発する」と思った。そして『失われた何か大切なもの』を求めての旅が始まっていた。その後、十九の春があった。原因は失恋だった。それは十六の中学卒業の頃にあった。もう人生も青春も終わったと思われた(今にして思えば、馬鹿げた話である)。その後、埋没を余儀なくされた。何をしても駄目だった。奈落の底だった。糸車の針が刺さったのだった。自信を失ったのだった。絶対の自信を回復するには、三十有余年を要した。そして今、気づいている。長い冬だった。しかし春は必ず来る。諦めないことである。不安と孤独から逃れる方法はあった。自分のすべてを認めることだった。それが素直ということだった。或いは正直である。そしてそれまでの黄泉の守護を確信するのだった。それは十九の春を認めることだった。これは勇気を要した。そして真実の救いが来た。糸車の針は抜かれた。自由となった。本来の自分を知るに至った。知った自分は何者だったか。それが禅のテーマだった。禅は今、日本にしかない。故に伝えるべきことがある。護るべき國、神国日本がある。祖先に感謝するのだった。日本に感謝するのだった。私は黄泉に護られていた。この試練に耐えた時、どれほどの祝福があるか。知る由もなかった。しかし過去からの約束だった。その頃、ナポレオン・ヒル氏の代償の原則の指摘に出会うのだった。それは三十有余年の熾烈な旅だった。自分の人生とは何だったのだろう。改めて思うのだった。そして使命は果たしたと思った) | |||
| 広島YMCA予備校 | 平賀春二先生(その後、研究社大英和辞典第四版の校閲者の欄を見て驚いた。海軍大学及び広島大学の教授をされた方で、船舶関係の専門家だった)の英語の授業を受講(真面目に受講したのはこれだけだった。コミュニケーションツールとしての英語がわかったと思った)。 | |||
| 大学:広島大学法学部法学科5261066(一期生) | 法学部ゼミナール連絡会議を全会一致で設立(各ゼミ員の卒論テーマの開示を含む会報及び住所録の発行、年一回のゼミ連主催著名先生による講演、ゼミ間の交流を図るソフトボール大会の開催。ノンセクトではあったが、当時国立大学にこうした自治組織を勝手に作ってしまったことは今にして思えば驚きである。その理由が何だったのか。気づくにはさらに三十有余年を要した。卒業後、広島大学は北海道大学を抜いて日本一のキャンパスを持つに至った。何故だったのだろうね.。そして高校卒業時に志望していたのは京都大学法学部だった。受験票は持っていた。受験することはなかった。十九の春の故だった。その頃、祖父が他界した。東京大学に興味はなかった。小五の頃だったろうか、たまたま遊びに行った友達の家で安田講堂の屋上から火炎瓶が投げられるのを見ていた)。民法T石外ゼミナール卒。得意科目:政治学、行政法(全優)、お師匠:石外克喜教授、筑間正泰教授(卒業後個別指導を賜る。ある日、先生があるところで講義されるのにそのリハーサルだったのだろうか(否、伝授だった)、その内容を一時間あまり電話で話してくださった。刑法の条文からの体系的解釈方法論であり、刑罰の本質に関しての内容だった。その時、刑法がわかったと思った。亦、ある日食事をしていて、先生は仰るのだった。後藤君、君は大金持ちではないか。その時、その意味がわからなかった。理解するにはさらに時を要した。私の探すべきものはまだ別にあった) | |||
| 卒論テーマ:『不法行為の一般的成立要件について』(主な論点:「不法行為において故意と過失は別に論じるべきである」。10年後の学会でこのテーマが議論されたと聞いている。石外教授は個別的テーマに絞るように指導された。しかし私は一般的テーマだった) | ||||
| 就職 | 昭和56年4月、株式会社大林組(名古屋支店配属、即退社。理由は十九の春の延長だった。その後特殊潜行。社会に見捨てられたと思った。最下層で地獄を見た。その後。就職も結婚もできなかった。人生と青春は失われていた。十九の春は津波だった。それほどの地獄を見た。しかし、ナポレオン・ヒル氏の代償の原則に出会う頃、解決するのだった。その間、膨大な読書があった。苦行のようであった。そしてあるところで菩薩業も教えて頂いた。不思議かつ貴重な経験を積んでいた。全ては自分のために準備されていたかのようだった。解くべき謎があったからだった) | |||
| その他 | 角川書店『うたびとたちの現代秀歌選集』入選(「短歌」平成六年十月臨時増刊号p462)、日本プロ麻雀連盟初段、呉市社協(保健所リハビリへの車椅子送迎,、毎週金曜日の午前、期間半年、2回:お一人の方は焼肉店を経営する方の奥様で、脳梗塞に伴う半身不随のリハビリ、終わる頃には元気になられた。お二人目の方は、延髄小脳萎縮という進行性のもので、ご本人は努力されるのであるが、だんだんと衰えていくのを見るのはつらかった。退職されてこれから夫婦で旅行でもして余生を楽しもうとされていた矢先のことだった。保健婦さんがいわれた。奥様にとってこの時間だけが自由になれる時間なのだと)及び呉市椿号(年に一度、お一人では旅行できない車椅子で生活している方々及び盲目の方々のために企画される旅行の随行ボランティア)2回(チボリ公園及びとべ動物園)並びにボランティアグループ『おりづるの会』にてボランティア活動(特別養護老人ホームシーツ交換及び独居老人話し相手。この間、中国からビルマまで七年間、トラック部隊で最前線を戦い抜き、やがて捕虜となって死の島 「レンバン島 」に送られた方の実体験をつまびらかに聞いた。この方とは一緒にテレビの取材に出させて貰った。亦、特別養護老人ホームで歯ブラシで車椅子を磨くことがあった。これには閉口した。その汚れに嘔吐を伴うのだった。この頃、先輩の厚生省事務次官が事件を起こした。思わず叫んだのを覚えている。彼にこれをさせろ!)実績3年半(ヘルパー制度開始に伴い中止)、山本としあき衆議院選挙事務局長及び後援会幹事長(10月15日までは勝っていた。その後、絨毯爆撃があった。オセロゲームのように票田の色が変わった。色々なことがあった)、学習塾歴24年(鯉城学院非常勤講師、青嵐学院専任講師、有限会社青藍教育研究社取締役事務長及び高校部長、後藤塾自営。家庭教師をしていた頃、子ども達と随分と問題集を一緒に解いた。算数の難問集も二冊全て解いた。高校受験選抜クラスの難問集を5教科全て一緒に解いた。大学受験英語も楽しかった。全国の大学の受験英語問題を自ら解いて調べた事もあった。慶応と早稲田はやはり難しかった。勉学が楽しい頃だった)、アデコ・キャリア・スタッフ:OAインストラクタ登録、YBB設定スタッフ、Q&Aスタッフ、ワンストップサポートスタッフ、KWN(呉発インターネット通販)、コジマ広島ニュー宇品店サポート担当及びパソコンアドバイザー。現在修行中。 | |||
| スポーツ心得 | 剣道、テニス | |||
| ニックネーム | ゴットン ゴトサン | |||
| ハンドルネーム | 閑 (パソコン通信 ビッグローブ グルメ天国) | |||
| 大好きだったアプリケーション | 『まいとーく』 | |||