野呂山 弘法寺 奥の院
【2005/12/1】今日、てっちゃんと野呂山弘法寺を訪ねました。境内は、台風の後、修復中で、傾いていたお寺は、歓迎ムード。安浦町中切の方が、ボランティアでお世話しておられます。先日は、チベットの僧侶が5人訪れたそうです。そして、ここは、清浄で、霊気が漂っていると仰ったそうです。弘法大師は、厳島弥山を訪ねた後、この野呂山を見て、ここを奥の院とし、修行されてチカラを得て、やがて、唐に渡ります。そして、再び野呂山に登られたのは、御年49歳のことでした。真言宗を開宗されたのは、平城天皇の勅命によってのことでした。大晦日には、除夜の鐘もつかれるそうです。野呂山が、奥の院としての弘法大師の修行の地であったことに、あらためて、気づかせていただきました。
【弘法寺の由来】:弘法大師は、第四十九代光仁天皇の寶亀五年六月十五日(七七四)讃岐国屏風浦(現在の善通寺市)に御誕生御年十九才にして四国中国東海道伊豆桂谷修善寺等各地の山岳に登られ求聞持の秘法を修め難行苦行を重ね仏道に入り修道を究め偶々芸州厳島弥山に杖をひかれ帰路瀬戸内海にそびゆる野路山に登り岩屋に籠り(現在の奥の院)修行に専念されたとあり延暦の末遣唐使に従い入唐青龍寺の高僧恵果に密教を学ぶこと三年余り帰朝して普く諸国を巡り真言秘法を説き大同二年(八〇七)平城天皇の勅命によって真言宗を開宗され弘仁三年(八二三)春御年四十九才の時再び野路山に登られたその事跡に鑑み地元中切の住民は広く有志と[□+歹]りこの地に伊音城大師堂を建立した本尊大師像を祭り月の二十一日を命日と定め毎年高野山龍泉院法印登山勧行あり中切の百姓二人づつ相詰め燈明供養したとあり当時法印の奉献せる石灯籠一基現在せり(天明八)過去千余年間大師堂は幾度か再建され今日に至っている
弘法水が安浦町中切川の源泉である。やがて、瀬戸内海に注ぎ、大海へ帰還する。自然浄化現象の原型である。
五十音。あいうえお。いろはにほへと。愛。色。色即是空。空即是色。空海。・・・食うかい?・・・龍を餌にする大鵬がいる。雲は龍に従う。雲竜。雨は天。雨よ降りたければ降れ(スッタニパータ)。雨にもいろいろある。蕭々として静かで細く長い雨脚は嵯峨野大沢の池がよく似合う.。解字においては、冠は要らぬ。汝は爾、神である。で、今、何時?そして、ドコis此処?準備万端、飯は炊けている。そして、はなのイロハいたづらに。イロハ、アロハ。